―対象を見る者、村を守る者、源流を見誤る者―
※本稿は、二次元オタク文化圏にいる人々を、欲望の源流と村民化の有無から整理する試論である。特定の趣味を禁止するためではなく、自分が何を欲望し、どこへ帰っているのかを見るための分類である。
二次元オタク文化圏には、さまざまな人々がいる。アニメ、漫画、ゲーム、ノベルゲーム、キャラクター、声優、VTuber、イベント、グッズ、配信、ライブ。これらはまとめて「オタク文化」と呼ばれがちである。
しかし、同じ二次元オタク文化圏にいるからといって、同じ欲望を持っているわけではない。
ここで最初に分けておくべきことがある。
二次元オタク文化圏にいることと、二次元オタクであることは、同じではない。
私がここでいう二次元オタクとは、作品、キャラクター、物語、世界観、演出、構造、声の演技など、二次元対象そのものへ欲望が向かう者である。
もちろん、二次元オタクも作品の外へ出る。制作を見ることもある。声優を見ることもある。
売上や業界構造を見ることもある。他人の感想や考察を読むこともある。
しかし、それは対象から離れるためではない。
対象をよりよく見るために外へ出て、最後は作品やキャラクターへ帰ってくる。
一方で、二次元オタク文化圏には、二次元対象そのものではなく、三次元アイドル文化を源流とする欲望を満たしている人々もいる。
認知されたい。応援したい。成長を見守りたい。ファンサがほしい。
誕生日を祝いたい。現場や界隈で一体感を得たい。推している自分を確認したい。
こうした欲望は、二次元対象への欲望とは源流が違う。
問題は、それが声優やVTuberやキャラクター文化を経由すると、あたかも二次元オタクの自然な延長であるかのように見えてしまうことだ。
だから本稿では、まず「二次元オタク文化圏にいる人々」を分類する。
そのうえで、どこまでが二次元オタクであり、どこからがアイドル源流型の欲望消費なのかを切り分ける。
1. 欲望の源流
まず、欲望の源流を分ける必要がある。
大きく二つある。
一つは、二次元対象源流である。
これは、作品、キャラクター、物語、世界観、演出、構造、声の演技などに向かう欲望である。
このキャラクターが好き。この作品世界が好き。この関係性が良い。この展開が効いている。
この演技がキャラクターを成立させている。この作品がどのように作られているのか知りたい。
こうした欲望は、対象へ向かっている。
ここでいう対象は、キャラクター単体に限らない。
作品世界、演出、脚本、作画、音響、構成、制作体制、媒体特性まで含む。
したがって、二次元対象源流の人間は、必ずしも作品世界の内側だけに留まるわけではない。
制作を見ることもある。声優を見ることもある。売上や企画構造を見ることもある。
しかし、それは対象から離れるためではない。
対象をよりよく見るために外へ出て、最後はまた作品やキャラクターへ帰ってくる。
これが、二次元対象源流である。
もう一つは、アイドル源流型である。
これは、作品やキャラクターそのものよりも、認知、応援、成長、ファンサ、誕生日、現場の一体感、推している自分の確認といった欲望を中心にする。
これは本来、三次元アイドル文化を源流に持つ欲望である。
応援したい。誰かの成長を見守りたい。誰かに反応されたい。誰かを祝いたい。誰かを中心にした共同体に属したい。その人を推している自分を確認したい。
こうした欲望は、二次元作品そのものへの欲望とは源流が違う。
ここで重要なのは、アイドル声優やVTuberを楽しむこと自体を否定する必要はない、ということだ。
それはそれで一つの楽しみ方である。
しかし、それを二次元オタクの自然な延長だと考えるのは違う。
アイドル源流型は、二次元オタク文化圏の中に存在することがある。
声優、VTuber、キャラクター、アニメイベント、ライブ、配信。
形式としては二次元文化に接続しているように見える。
だが、そこで消費されているものが、認知、ファンサ、成長物語、誕生日、現場の一体感、推している自分であるなら、それは二次元対象源流ではない。
それは、三次元アイドル文化を源流に持つ欲望である。
ここは、はっきり切ってよい。
アイドル源流型は、二次元文化の深化ではない。
三次元アイドル欲望が、二次元オタク文化圏へ持ち込まれたものである。
二次元文化と接続してはいる。
しかし、二次元オタクの延長線上にはない。
問題は、この欲望が二次元の形式をまとうことで見えにくくなることだ。
声優なら「キャラクターが好きだから」と言える。VTuberなら「二次元的な存在だから」と言える。
キャラクターグッズなら「作品を応援しているから」と言える。
しかし、その実態が、認知、ファンサ、共同体、推している自分の確認にあるなら、それは二次元対象への欲望ではない。
アイドル的欲望が、二次元文化の形式によって見えにくくなっているのである。
ここを誤魔化してはいけない。
2. 二次元オタクのフィードバック問題
この二つの源流の違いは、フィードバックの構造を見るとより明確になる。
二次元オタクには、原理的なフィードバックの欠落がある。
本来、二次元オタクが欲しいフィードバックは、三次元の演者や配信者からの反応ではない。
一例として、作品世界の中に自分が転移し、好きなキャラクターから認識され、そのキャラクターと関係を持つことができれば、二次元オタクの欲望はかなり充足される。
しかし、それは不可能である。
キャラクターはこちらを見ない。
作品世界はこちらに応答しない。
画面の向こう側へ、こちらの存在は届かない。
この不可能性が、二次元オタクの原理的な虚しさである。
だから、声優、イベント、ラジオ、配信、コメント拾い、名前呼び、サイン会といった三次元側の反応は、二次元オタクにとって一種の疑似フィードバックになり得る。
ただし、それは本来のフィードバックではない。
キャラクターから認識されたわけではない。
作品世界に入れたわけでもない。
あくまで、三次元世界において、作品に接続する人物や場から返ってきた代替的な反応である。
ここを妥協案として理解するなら、まだよい。
名前を呼ばれたら嬉しい。
コメントを拾われたら嬉しい。
サインをもらえたら嬉しい。
それは自然なことだ。しかし、それは本質ではない。
あくまで、本来あり得ないキャラクターからの応答に対する、三次元側の疑似的な代替である。
したがって、そこにオタクとしてのアイデンティティを置きすぎない。
認知された自分。
読まれた自分。
現場にいる自分。
推しに届いた自分。
そこを中心にしない。
嬉しいが、そこへ帰らない。
一方で、アイドル源流型は、この疑似フィードバックを妥協案として扱いにくい。
彼らにとって、認知、反応、メール採用、名前呼び、ファンサ、現場の一体感は、最初から欲望の中心に近い。だから、それらは単なる代替物ではなく、オタクとしての実感そのものになりやすい。
もちろん、多くの人は反応があれば素直に喜ぶだけである。
読まれて嬉しい。
名前を呼ばれて嬉しい。
コメントを拾われて嬉しい。
そこまで否定する必要はない。
しかし、アイドル源流型では、その喜びの中心がフィードバックに置かれやすい。
そして、そのフィードバックを得る自分、界隈で共有する自分、推しに届いている自分が、次第にアイデンティティ化しやすい。
ここに危うさがある。
二次元対象源流の人間にとって、三次元側の反応は妥協案である。
アイドル源流型にとって、それは欲望の本体に近い。
この違いを見誤ってはいけない。
3. 村民化
次に見るべきなのは、村民化である。
ここで村民化とは、対象そのものよりも、対象を中心に形成された共同体の空気、序列、一体感、承認を重視するようになることと定義する。
これは、欲望の源流とは別の軸である。
二次元対象源流の人間でも村民化する。
アイドル源流型の人間でも、村民化しない人はいる。
ここで大事なのは、共同体すなわち村を使うことと、村民化することは違う、という点である。
二次元対象源流のオタクであっても、感想を読む。考察を参考にする。イベント情報を得る。
同じ作品を好きな人と話す。他人の視点によって、対象の見え方が深まることもある。
共同体を経由すること自体は問題ではない。
問題は、そこに自分のアイデンティティを置き、村の守護者になってしまうことである。
オタク的な個人は、共同体を経由しても対象へ帰る。
村民は、対象を経由して共同体へ帰る。
ここが分水嶺である。
村には大きく二種類ある。
一つは、古参村である。
古参村は、歴史、作法、参加歴、知識量、現場慣習を秩序にする。
昔から見ている。昔の空気を知っている。この作法を分かっている。
新規は浅い。この文化はこう楽しむものだ。
こうした感覚が強くなると、対象理解よりも古参性が前に出る。
古参であること自体は悪ではない。
長く見てきた人間には、長く見てきた人間にしか分からないものがある。
歴史は対象理解の武器にもなる。
問題は、その歴史を対象理解に使うのではなく、村の身分証にすることである。
古参村民とは、古さそのものの問題ではない。
古さを自分の正統性に変え、村の守護者になる態度の問題である。
もう一つは、推し活村である。
推し活村は、配慮、一体感、ファン感情、安全な空気を秩序にする。
傷ついた人がいる。楽しんでいる人の気持ちを考えろ。推しを悲しませるな。界隈の空気を乱すな。
みんなで気持ちよく応援しよう。こうした言葉で、村の空気が守られる。
古参村と推し活村は、表面上は違う。
古参村は「昔の作法」を守る。
推し活村は「優しい空気」を守る。
しかし、構造としては似ている。
どちらも、対象そのものより村を守る瞬間がある。
対象を見るための共同体だったはずが、いつの間にか共同体を守るために対象が使われる。
古参村民は、古い村の守護者である。
推し活村民は、優しい村の守護者である。
どちらも、対象へ帰るのではなく、村へ帰る。
これが村民化である。
4. 二次元オタク文化圏にいる人々の分類
ここまでを整理すると、二つの軸が立つ。
一つ目は、欲望の源流。
二次元対象源流か。アイドル源流型か。
二つ目は、村民化。
非村民か。古参村か。推し活村か。
これを掛け合わせると、二次元オタク文化圏にいる人々は大きく次のように整理できる。
| 欲望源流\村民化 | 非村民 | 古参村 | 推し活村 |
|---|---|---|---|
| 二次元対象源流 | 対象オタク | 古参村民 | 二次元推し活村民 |
| アイドル源流型 | アイドル性自覚型オタク | アイドル源流型 古参村民 |
アイドル源流型 推し活村民 |
この表は、「二次元オタクを六種類に細かく分ける表」ではない。
むしろ、二次元オタク文化圏にいる人々のうち、どこまでが二次元対象を源流にするオタクなのかを切り分けるための表である。
上段は、二次元対象を源流にする人々である。
これは広い意味で、二次元オタクと呼んでよい。
下段は、二次元オタク文化圏にいるが、欲望の源流はアイドル的である。
これは厳密には、二次元オタクの自然な発展形ではない。
アイドル源流型の消費である。
ここを曖昧にすると、議論が濁るため、そう断言する。
5. 各類型の説明
対象オタク
対象オタクは、二次元対象源流であり、村民化していない。
作品を見る。キャラクターを見る。世界観を見る。演出を見る。構造を見る。声の演技を見る。
外へ出ることもある。制作を見ることもある。声優を見ることもある。市場や業界を見ることもある。
共同体を経由することもある。
しかし、最後は対象へ帰る。
ここで重要なのは、作品の外を見ること自体は問題ではないということだ。
制作や声優や業界を見ることは、二次元からの逸脱ではない。
それが対象理解へ戻るなら、それは対象オタクの一部である。
共同体を使うことも同じである。
感想共有や情報交換は対象理解の補助線になり得る。
問題は、共同体を経由することではない。
そこに住み、そこを守ることが目的になるかどうかである。
対象オタクは、共同体を経由しても対象へ帰る。
古参村民
古参村民は、二次元対象源流を持ちながら、古参村へ帰る。
作品は見ている。キャラクターも好きである。知識もある。歴史も知っている。
しかし、その知識や歴史が、対象理解ではなく村の序列を作る道具になる。
昔から知っている自分。
現場の作法を分かっている自分。
新規より深い自分。
こうした意識が前に出ると、対象よりも村の歴史を守るようになる。
古参村民の問題は、古いことではない。
古さを対象理解ではなく、権威に変えることである。
二次元推し活村民
二次元推し活村民は、二次元対象源流を持ちながら、推し活村へ帰る。
これは重要である。
推し活村民は、声優やVTuberのような三次元的対象にだけ発生するわけではない。
完全な二次元キャラクター相手でも、推し活村民化は起きる。
典型例は、グッズ量や参加歴を使った「ガチ勢」化である。
このキャラのグッズをこれだけ持っている。
このイベントに全部行った。自分はこのキャラを本気で推している。
この界隈の空気を壊すな。このキャラを否定する発言は許せない。
こうなると、対象そのものより、対象を中心にした村と自分の位置が重要になる。
対象が二次元だから安全、ということはない。
二次元キャラクターであっても、村の身分証にされた瞬間、そこには推し活村民性が発生する。
二次元推し活村民は、対象を好きではある。
しかし、最後に帰る場所が対象ではなく村になる。
アイドル性自覚型オタク
アイドル性自覚型オタクは、アイドル源流型でありながら、村民化していない。
アイドル声優が好き。VTuberが好き。ライブが楽しい。成長を見るのが楽しい。
コメントを拾われたら嬉しい。ファンサが嬉しい。
それ自体は否定する必要がない。
重要なのは、自分が何を楽しんでいるかを見誤らないことである。
これは二次元作品そのものへの欲望ではない。
かなりの部分で、三次元アイドル文化を源流に持つ欲望である。そう自覚している。
声優やVTuberを、二次元オタクの自然な延長としてではなく、アイドル性・配信者性・タレント性を含む娯楽として自覚的に楽しむ。
認知やファンサやライブを楽しむことはあるが、それを二次元対象への愛と偽装せず、村の守護者にもならない。この態度であるなら、それは一つの娯楽である。
少なくとも、二次元オタクの顔をして他人にその倫理を押しつけるよりは、ずっと健全である。
アイドル源流型古参村民
アイドル源流型古参村民は、アイドル源流型でありながら、古参村へ帰る。
初期から応援している。
売れる前から知っている。
昔の現場を知っている。
自分たちが支えてきた。
新規は分かっていない。
こうした感覚が中心になる。
この型では、対象への応援が、いつの間にか「昔からいた自分」の正当化になる。
本人を見ているようで、実際には自分の歴史,村での立場を見ている。
これがアイドル源流型古参村民である。
アイドル源流型推し活村民
アイドル源流型推し活村民は、現代の推し活村民の濃い形である。
認知されたい。ファンサがほしい。誕生日を祝いたい。現場で一体感を得たい。
推しを支えている自分を確認したい。界隈で安全に同じ気分でいたい。
そこに、推し活村の倫理が重なる。
傷ついた人がいる。推しを悲しませるな。楽しんでいる人の気持ちを考えろ。
否定的なことを言うな。みんなで気持ちよく応援しよう。
ここでは、対象そのものより、対象を中心にした関係性と共同体が本体になりやすい。
彼らは作品を見ていないわけではない。
キャラクターを好きでないわけでもない。
しかし、最後に帰る場所が違う。
対象へ帰るのではなく、村へ帰る。
作品へ帰るのではなく、応援している自分,界隈の一体感へ帰る。
ここが問題である。
6. 典型的行為から見る各類型の違い
さきほど挙げた分類で大事なのは、行為そのもので各類型を判断しないことである。
典型例を絞って三つだけ挙げる。
グッズを買う
グッズを買うこと自体は中立である。
キャラクターが好きだから買う。
作品世界を手元に置きたいから買う。
これは対象オタクである。
一方で、グッズ量を使って「自分はガチ勢だ」と示すなら、それは村民化である。
同じグッズ購入でも、対象へ帰るならオタクであり、村へ帰るなら村民である。
イベントに行く
イベントに行くこともそれ自体は中立である。
作品の話を聞きたい。制作や演技の話を聞きたい。対象理解を深めたい。
これは対象へ帰っている。
一方で、全通していること、古参であること、現場で認知されること、界隈で強いことが中心になるなら、それは村へ帰っている。
イベント参加そのものが問題ではない。
イベントを何のために使っているかが問題である。
誕生日を祝う
誕生日を祝うことも、それだけで悪いわけではない。
キャラクターや声優への愛着として、自分の中で小さく祝うなら、それは一つの楽しみである。
しかし、誕生日が村の儀式になると話が変わる。
祝わない人間は愛が足りない。この規模で祝っている自分たちは本物だ。
公式も祝うべきだ。界隈全体で盛り上げるべきだ。
こうなると、誕生日は対象への愛ではなく、村の秩序確認になる。
7. アイドル源流型の有害性
アイドル源流型の問題は、単に二次元対象源流とは別系統である、というだけではない。
それが二次元文化の形式をまとうことで、二次元オタクの自然な延長に見えてしまう点にある。
「推し」や「界隈」という語彙の問題は、それが欲望を単に表現することではない。
むしろ、承認欲求や共同体欲求を、対象への愛や応援であるかのように偽装してしまう点にある。
人間の欲望は固定的ではなく、語彙によって容易に形を変え、本人にすら見えなくなる。
こうした語彙が二次元文化の中へ入り込むと、作品やキャラクターは、しばしば対象ではなく村の中心物へ変わる。
その結果、評価軸が歪む。
キャラクターを見ることより、推している自分が重視される。
作品の出来より、界隈の空気が重視される。
批評より、ファン感情の保護が重視される。
対象への理解より、共同体内での正しい振る舞いが重視される。
これは有害である。
なぜなら、三次元アイドル文化を源流に持つ欲望を二次元文化の中へ持ち込みながら、それを自覚しないまま「現代のオタクの普通」として振る舞うからである。
もちろん、アイドル源流型が必ず村民化するわけではない。
アイドル性自覚型オタクのように、アイドル的欲望を自覚し、自分の娯楽として楽しむだけなら、それは一つの趣味である。
誰かを応援したい、成長を見たい、ライブを楽しみたい、ファンサを喜びたい。
それ自体を否定する必要はない。
しかし、アイドル源流型は村民化と非常に結びつきやすい。
なぜなら、そこには最初から認知、応援、現場、界隈、一体感といった共同体的欲望が含まれているからである。
作品やキャラクターを見る欲望よりも、人との距離、共同体の空気、応援している自分、界隈の一体感へ向かいやすい。
だから、アイドル源流型は推し活村と接続しやすい。
ここに自覚がないと、作品やキャラクターを見る文化そのものが、村とファンサの論理に塗り替えられていく。
アイドル的欲望を持つな、という話ではない。
その欲望を楽しむこと自体は構わない。
だが、それを二次元オタクの顔で偽装し、作品やキャラクターを見る文化そのものを村とファンサの論理で塗り替えるなら、それは有害である。
もはや,それは二次元文化の深化ではない。
三次元アイドル欲望の二次元オタク文化圏への持ち込みになってしまう。
まず、自分の源流を見ろ。
8. この分類の意味・注意事項
この分類は、人間を固定するためのものではない。
人は混ざる。
ある作品では対象オタクであり、別の作品では村民化することもある。
普段は二次元対象源流でも、特定の声優やVTuberではアイドル源流型になることもある。
古参性を対象理解に使う人もいれば、古参性を身分証にする人もいる。
だから、問うべきなのは、
あなたは何者かではない。
問うべきなのは、
いま、自分は何を欲望しているのか。その源流はどこにあるのか。最後にどこへ帰っているのか。
である。
対象オタクは、共同体を経由しても対象へ帰る。
村民は、対象を経由して共同体へ帰る。
アイドル源流型は、二次元文化を経由してアイドル的欲望へ帰る。
この違いを見るための分類である。
9. 結論
二次元オタク文化圏には、さまざまな人々がいる。
作品やキャラクターへ向かう者がいる。制作や演技を通って、なお対象へ帰る者がいる。
一方で、対象を使って古い村を守る者がいる。対象を使って優しい村を守る者がいる。
さらに、二次元文化の形式を通じて、三次元アイドル文化を源流に持つ欲望を満たす者もいる。
この最後の層を、二次元オタクの自然な延長として扱ってはいけない。
彼らは二次元オタク文化圏にいる。
しかし、欲望の源流は二次元対象ではない。
ここを曖昧にすると、二次元文化はアイドル的欲望と村の論理に塗り替えられる。
アイドル的欲望を持つなとは言わない。
村を作るなとも言わない。
ただし、自分の源流は見ろ。
対象を見ているのか。村を見ているのか。
自分の承認を見ているのか。アイドル的欲望を二次元で偽装しているだけなのか。
そこを見誤ったまま、二次元オタクの顔をするな。
まずはそこからである。


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