声優オタク論

その他

――本人に近づくな、演技が評価される世界を作れ

※※本稿は「二次元オタク文化圏の分類論」の続編です。

序 声優は境界面にいる

声優オタクは、二次元オタク文化圏の中でも、もっとも危うい位置にいる。

なぜなら、声優は二つの世界の境界面に立っているからである。

一方で、声優は作品側の存在である。

声。
間。
呼吸。
沈黙。
台詞の置き方。
感情の温度。
キャラクターの内面を立ち上げる声の仕事。

声優の演技がなければ、そのキャラクターはそのキャラクターとして成立しない。
その意味で、声優は明らかに二次元対象の構成要素である。

しかし他方で、声優は三次元の実在の人間でもある。

ラジオをする。
イベントに出る。
サインを書く。
SNSがある。
誕生日がある。
顔がある。
趣味がある。
ファンサがある。

ここで、二次元対象源流とアイドル源流型が混線する。

だから声優オタク論で問うべきことは、「声優を見るな」ではない。

声優を見ること自体は悪ではない。
むしろ、キャラクターを深く見れば、声優に目が向くのはある程度自然である。

問題は、声優を何として見ているのかである。

演技者として見ているのか。
キャラクターを成立させる職能として見ているのか。
それとも、本人性、認知、ファンサ、かわいさ、界隈の中心物として見ているのか。

声優オタクは、常にこの境界で試されている。

第一部 声優オタクはなぜ混線するのか

1. 本質・代替物・おまけを取り違えるな

声優オタクの問題の根本は、声優を好きになることではない。

本質・代替物・おまけの位置を取り違えることである。

まず、声優の本質とは何かを確認する。

ここでいう本質とは、その対象がその対象として成立するための中心機能である。
その対象を評価するとき、そこが崩れれば対象そのものの意味が弱くなるもの。
それが本質である。

これは、本人が何を望んでいるかという話ではない。

声優本人が、演技を重視しているか。
本人性を売りたいと思っているか。
アイドル的活動をしたいと思っているか。
タレント的に活動したいと思っているか。

それは別の話である。

ここでいう本質とは、声優本人の自己認識ではない。
声優という職能が、声優という職能として成立するための中心機能である。

こういう観点から言えば,声優における本質は演技である。

なぜなら、声優という職能は、声によってキャラクターや場面を成立させる仕事だからである。

アニメ、ゲーム、吹き替え、音声作品、ナレーション。
媒体によって形は違う。

しかし、声優が声優として作品に参加するとき、最終的に問われるのは、声がその対象を成立させているかどうかである。

その声によって、キャラクターの人格が立つ。
その間によって、台詞の意味が変わる。
その呼吸によって、感情の温度が決まる。
その沈黙によって、画面の中の人物が生きる。

ここが崩れれば、声優は声優として機能しない。

どれほど本人が魅力的でも、どれほどトークが面白くても、どれほどファンサが良くても、キャラクターを成立させる声の仕事が弱ければ、声優としての中心は弱い。

もし声の演技ではなく、本人性、容姿、トーク、ファンサ、距離感を中心に活動するなら、それは声優というより、アイドルやタレントとしての活動である。
それを否定する必要はない。
しかし、それは声優という職能の本質ではない。

ここを曖昧にしてはいけない。

本人性を中心に楽しみたいなら、それはそれで一つの立場である。
ただし、それは声優を演技者として見る立場ではない。
アイドル的対象として消費する立場である。

それで物足りないなら、本来は三次元アイドル文化へ行けばよい。

二次元文化圏に居座りながら、声優を本人性消費の中心へ引き戻すな。

これは、本人性を否定するという意味ではない。

声優には本人性がある。
ラジオがある。
イベントがある。
サイン会がある。
コメント拾いがある。
名前呼びがある。
本人のかわいさがある。
トークがある。
趣味がある。
誕生日がある。
ファンサがある。

これらは楽しんでもよい。

しかし、それらは本質ではない。

ここで、代替物おまけを分けておく必要がある。

代替物とは、本来得られないものの欠落を、別の場所で一時的に埋めるものである。

二次元対象は、こちらに応答しない。
キャラクターはこちらを認識しない。
作品世界はこちらに返事をしない。

だから、コメント拾い、名前呼び、サイン、イベントでの反応は、作品世界からは返ってこない応答の代替物になり得る。

それは嬉しい。ありがたい。記憶にも残る。

しかし、それはキャラクターからの応答ではない。
作品世界に入れたわけでもない。

あくまで、三次元側から返ってきた疑似フィードバックである。
したがって、これは代替物である。

次に、おまけである。

おまけとは、楽しんでもよいが、その対象の中心評価にしてはいけない付随要素である。

声優本人のかわいさ。
衣装。
トーク。
趣味。
ファンサ。
誕生日。
イベントでの距離感。

これらは楽しい。
楽しんでよい。

しかし、それらは声優という職能の成立条件ではない。
それを中心評価にした瞬間、声優を演技者として見ているのではなく、本人性を消費していることになる。

取り違えとは、代替物やおまけを本質に昇格させ、本質である演技を周辺化することである。

声を聴くためのラジオが、認知を得る場になる。
作品イベントが、本人性を消費する場になる。
演技評価の場が、かわいいを並べる場になる。
作品への感想が、推しを支える自分の証明になる。

ここで声優オタクは壊れる。

対象オタクにとって、声優ラジオやイベントやサイン会は本質ではない。
嬉しい。ありがたい。記憶には残る。
しかし、最後に帰る場所ではない。

本質は、作品であり、キャラクターであり、演技である。

一方で、アイドル源流型にとっては、認知、反応、ファンサ、現場、一体感そのものが欲望の中心に近い。
それをアイドル性として自覚して楽しむなら、まだよい。
それはアイドル性自覚型オタクである。

問題は、それを声優オタクの本質であるかのように扱うことである。

好きであることは免罪符ではない。
むしろ、好きであるからこそ、対象を自分の欲望の近くへ引き寄せやすい。

もっと知りたい。
もっと聴きたい。
もっと見たい。
もっと反応がほしい。
もっと関係を感じたい。

その欲望は自然である。

しかし、声優はその欲望を満たすための存在ではない。
声優は、キャラクターを成立させる職能者である。

好きだからこそ、雑に扱ってはいけない。
好きだからこそ、本質・代替物・おまけの位置を取り違えてはいけない。

声優を大事にするとは、本人を近くに置くことではない。
演技者として雑に扱わないことである。

2. 声優を見る正当な経路は、キャラクターからである

声優を見る正当な経路は、まずキャラクターからである。

このキャラクターの声がよい。
この台詞の間がよい。
この沈黙が効いている。
この声の震え方が、人物の内面を支えている。
この演技がなければ、この場面は成立しなかった。

そこから声優を見る。

これは二次元対象源流の声優オタクである。

声優を見ているが、本人へ帰っているのではない。
声優という職能を経由して、キャラクターへ帰っている。
演技を経由して、作品へ帰っている。

逆に、声優本人から入り、作品やキャラクターがその燃料になると危うい。

この声優が出ているから作品を見る。
それ自体は悪くない。
入口としては自然である。

しかし、見たあとにどこへ帰るのか。

作品へ帰るのか。
キャラクターへ帰るのか。
演技へ帰るのか。

それとも、本人、誕生日、ファンサ、認知、界隈へ帰るのか。

ここで分かれる。

声優を見るなら、最後は演技へ帰らなければならない。

3. アイドル性への滑落は、誰にでも起きる

声優オタクは、アイドル源流型を批判していれば安全になるわけではない。

声優は実在の人間である。
声があり、顔があり、話し方があり、ラジオがあり、イベントがあり、サインがあり、コメントへの反応がある。

だから、本人性に惹かれることは普通に起きる。

好きな声をもっと聴きたい。
地声を聴きたい。
本人の話も聴きたい。
イベントで見たい。
反応があれば嬉しい。
名前を呼ばれれば嬉しい。

それは人間の反応として自然である。

問題は、そこに惹かれることではない。
そこに惹かれている自分を見ないことだ。

本人性に惹かれているのに、それを演技評価だと思い込む。
認知が嬉しいのに、それを作品への敬意だと偽装する。
イベントの近さが嬉しいのに、それを声優を支えている行為だと呼ぶ。

そこから声優オタクは崩れる。

必要なのは禁欲ではない。
再配置である。

本人性はおまけである。
疑似フィードバックは代替物である。
アイドル性は、アイドル性として自覚するべきものである。

それらを楽しんでもよい。
しかし、本質にするな。

最後は作品へ帰れ。
キャラクターへ帰れ。
演技へ帰れ。

4. 自覚は出口になるが、村は出口を塞ぐ

本人性に惹かれること自体は、避けられない。

だから問題は、アイドル性に一度も落ちないことではない。
落ちそうになったとき、自覚できるかどうかである。

一人であれば、まだ戻れる。

これは演技評価ではない。
これは本人性への反応である。
これは疑似フィードバックである。
これはおまけであり、代替物であり、本質ではない。

そう整理できれば、欲望は再配置できる。

しかし、村に入ると危険が増す。

村は、個人の揺れを正義に変える。

典型的な例としては声優の結婚騒動だ。

古参村では、怒りは「裏切られた私たちの正当な怒り」になる。
違和感は、「昔から見てきた者だから分かる痛み」になる。
寂しさは、「支えてきた時間を汚された」という物語になる。

一方で、推し活村では逆の変換が起きる。

不満は悪とされる。
祝福が義務になる。
傷ついたことすら、本人への加害として処理される。
村の空気を守るために、全員が正しく祝うことを求められる。

怒る古参村も、祝わせる推し活村も、構造は同じである。

どちらも、個人が自分の欲望を見つめ直す機会を奪う。
どちらも、声優本人の人生を村の秩序維持に使う。
どちらも、演技へ帰らない。

だから、より危険なのは個人の欲望ではなく、村である。

一人なら、自覚によって戻れる。
村に入ると、自覚は村の言葉に変換される。

そこでは、欲望は反省されない。
正当化される。

第二部 本人性消費は何を歪めるのか

5. 業界とオタクは、本人性市場を共犯的に作った

声優業界とオタクは、本人性市場を共犯的に作ってきた。

業界は、声優の本人性を売った。

顔。
トーク。
イベント。
配信。
サイン。
距離感。
ファンサ。
誕生日。
私生活の匂い。

オタクは、それに反応した。

かわいいと言い、会いに行き、コメントを書き、認知を喜び、支えている自分を確認した。

市場は、その反応を読んだ。
そして業界は、さらに本人性を供給した。

この循環の中で、現在の声優文化は形作られている。

だから、声優業界だけが悪いわけではない。
オタクだけが悪いわけでもない。

業界はオタクを搾取してきた。
しかしオタクもまた、その搾取構造に金と感情を投じ、同じ構造を強化してきた。

本人性市場には功もある。

声優の露出を増やし、収入経路を作り、作品外で声に触れる機会を生んだ。
それによって見つかった声優もいるし、支えられた現場もある。

しかし、罪もある。

演技評価の回路を細らせ、本人性消費の回路を太くした。
声優を職能者ではなく、近さ、かわいさ、反応、ファンサで評価される存在へ寄せた。
そして私生活まで商品価値に巻き込まれる土壌を作った。

問題は、共犯であること自体をいまさら否認することではない。

重要なのは、自分がどの回路に加担しているのかを把握することである。

自分は演技が評価される回路を太くしているのか。
それとも本人性消費の回路を太くしているのか。

声優を作品へ帰しているのか。
それとも村へ、認知へ、ファンサへ、かわいさへ引き戻しているのか。

本人性を太らせたいなら、それはそれで一つの立場である。
ただし、それは声優を演技者として見る立場ではない。
単なるアイドルオタクとしての立場である。

その立ち位置を自覚せよ。

功罪を知れ。
やるなら、自覚したうえでやれ。

6. 声優オタクの行為は政治である

声優オタクの行為は、個人の趣味である。
しかし、それだけでは終わらない。

コメントを書く。
イベントに行く。
グッズを買う。
ネットサイン会に参加する。
ラジオへメールを送る。
アンケートを書く。
円盤を買う。
SNSで反応する。

これらはすべて、市場への入力である。

市場はそれを見る。

何に金が動いたのか。
何にコメントが集まったのか。
何が盛り上がったのか。
どの声優が、どういう出し方をされた時に反応が取れたのか。

その入力の集合が、次の供給を決めていく。

だから、声優オタクの行為は政治である。

ここでいう政治とは、政党や選挙の話ではない。
文化圏の内部で、何が価値として扱われ、何が次に供給されるかを左右する行為のことである。

自分はただ「かわいい」と言っただけ。
ただイベントに行っただけ。
ただコメントを書いただけ。
ただサイン会に参加しただけ。

そう思うかもしれない。

しかし、その「ただ」が積み上がると、市場はそれを本人性需要として読む。

この声優は顔出しで動く。
この声優はイベントで動く。
この声優はファンサで動く。
この声優は演技ではなく、本人性で売れる。

そう読まれれば、次の供給はそちらへ寄る。

本来おまけだったものを、ファンが本質として反応する。
すると市場も、それを本質として学習する。

ここが危険である。

声優本人を演技者ではなく、本人性商品として扱う市場を強化してしまう。

ここに加害性がある。

7. 好意にも加害性がある

声優オタクの加害性は、悪意からだけ生まれるわけではない。

むしろ、多くの場合は好意から生まれる。

かわいいと言う。
応援していると言う。
もっと見たいと言う。
イベントに行く。
コメントを書く。
誕生日を祝う。

どれも単体では悪ではない。

しかし、それらが市場に入力され、本人性需要として読まれ、演技ではなく接触やファンサやかわいさが供給の中心になっていくなら、その好意は声優を演技者から遠ざける方向に働く。

本人を傷つけようとしていなくても、声優の職能評価の回路を細らせ、本人性消費の回路を太くしてしまうなら、それは構造的に加害である。

推しを支えているつもりで、演技者としての評価回路を弱めていることがある。
本人を応援しているつもりで、本人性消費を強化していることがある。
界隈を盛り上げているつもりで、声優をファンサ装置へ押し込んでいることがある。

好意だから無罪ではない。

声優オタクは、自分の好意の政治性を見なければならない。

8. 本人性評価は、職能評価を押し流す

声優に対して、かわいい、癒やされる、好き、尊い、トークが楽しい、ファンサがよい、と感じること自体は自然である。

しかし、それらは本人性への評価であって、演技者としての職能評価ではない。

もちろん、本人性評価をすべて禁じる必要はない。
本人の雰囲気がよい。
話が面白い。
衣装が似合っている。
笑顔が魅力的である。

そう感じることは自然である。

しかし、それらは声優という職能の本質ではない。
多くの場合、それはおまけである。

問題は、そのおまけが演技評価の場を占領することである。

声優が演技で評価されるべき場で、本人性評価ばかりが積み上がる。
作品やキャラクターの話をする場で、本人のかわいさや愛嬌が前に出る。
演技の価値を語るべき文脈で、容姿、近さ、ファンサ、トーク力が評価軸になる。

そのとき、本人性評価は単なる好意ではなくなる。
職能評価を押し流す力になる。

市場もまた、それを読む。

演技ではなく本人性で反応が取れると判断されれば、次の供給も本人性へ寄っていく。

だから問題は、「かわいい」と言うこと自体ではない。
本人性評価が、演技評価の場所を奪うことである。

声優を演技者として見るなら、まず演技を見るべきである。
本人性評価は、中心に置くな。

9. 疑似フィードバックを本体にするな

声優ラジオや配信は楽しい。

好きな声を長く聴ける。
地声が聴ける。
話し方、笑い方、間、素の声質に触れられる。
この地声の人間が、作品ではあの声を出しているのか、という面白さがある。

その意味で、ラジオや配信は作品そのものではないが、声を享受する準作品のような側面を持つ。

しかし、ここでも混線が起きる。

ラジオを、声を聴く場として楽しむのか。
本人との関係性を得る場として扱うのか。

メールを読んでほしい。
コメントを拾ってほしい。
名前を呼んでほしい。
誕生日に触れてほしい。
自分を見てほしい。

ここへ向かうと、ラジオは声の媒体ではなく、疑似フィードバック装置になる。

コメント拾い、名前呼び、サイン、反応は、本質ではない。
それらは、二次元対象からは返ってこない応答の代替物である。

もちろん、読まれたら嬉しい。
コメントを拾われたら嬉しい。
名前を呼ばれたら嬉しい。

それは自然である。

しかし、それは作品世界からの応答ではない。
キャラクターに認識されたわけでもない。

三次元世界において、作品に接続する演者から返ってきた疑似フィードバックである。

対象オタクにとって、それは代替物である。
嬉しいが、本質ではない。
ありがたいが、そこへ帰らない。

一方で、アイドル源流型にとって、それは欲望の本体に近い。

読まれた自分。
認知された自分。
現場にいる自分。
推しに届いた自分。

そこにアイデンティティが置かれる

つまり、代替物が本質に昇格してしまう。

ここで声優オタクは崩れる。

疑似フィードバックを本体にするな。
嬉しいが、そこに住むな。

第三部 演技評価をどこに置くべきか

この論は、世界を一気に変えるためのものではない

この論は、声優業界を一気に変えるための処方箋ではない。

アンケートに演技評価を書いたからといって、市場がすぐに変わるわけではない。
感想に演技の価値を置いたからといって、本人性消費が消えるわけでもない。

現実には、売上、話題量、SNSの感情的な反応、イベント動員、グッズ消費の方が強く読まれる場面はいくらでもある。

それは分かっている。

しかし、それでも言葉を置く意味はある。

無意識に本人性を消費することと、引っかかったうえでそれを行うことは違う。
何も考えずに「かわいい」と言うことと、それが本人性評価であると分かったうえで置き場を選ぶことは違う。
認知を喜ぶことと、それが疑似フィードバックであると自覚して処理することは違う。
祝福や怒りを村の正しさに変えることと、それが自分の欲望の反応であると見つめることは違う。

この論の目的は、欲望を消すことではない。
欲望に名前を与えることである。

本質なのか。
代替物なのか。
おまけなのか。

その区別を一度通過させること。
その引っかかりを作ること。

それだけでも、行動は少し変わる。

10. 言葉は、置き場によって倫理が変わる

声優オタクにとって、言葉の倫理は重要である。

ただし、それは単に「失礼なことを言わない」という話ではない。
もっと根本的には、その言葉をどこに置くかの問題である。

同じ「演技が良かった」という言葉でも、置き場によって意味が変わる。

作品感想として置けば、作品理解になる。
アンケートに書けば、制作側への評価入力になる。
評論として書けば、演技の価値を言語化することになる。

しかし本人へ直接・過剰に置かれれば、その言葉は演技者の自由な試行錯誤を狭め、演技を役や作品ではなく、ファン反応へ最適化させる誘導になり得る。

同じ「かわいい」という言葉でも、置き場によって意味が変わる。

雑談の場では自然な好意かもしれない。
しかし演技者として評価されるべき場でそればかりが並べば、職能の軽視になる。

言葉は、内容だけで倫理が決まるわけではない。

本人に向ける言葉なのか。
作品へ返す言葉なのか。
業界へ置く言葉なのか。
村へ向けた言葉なのか。
自分の中に閉じる言葉なのか。

置き場によって、同じ言葉は祝福にも、消費にも、誘導にも、世界への入力にもなる。

だから声優オタクは、まず言葉の置き場を見なければならない。

11. 本人に届けるな、世界に置け

では、声優オタクはどう言葉を置くべきなのか。

声優に「あなたの演技は良かった」と伝えたい。
その気持ちは分かる。

しかし、声優を演技者として評価するなら、本人に届くことを目的にしすぎてはいけない。

本人に通じなくてよい。
本人が読まなくてよい。
本人が反応しなくてよい。

大事なのは、その演技が世界の中で価値として扱われることである。

アンケート。
作品感想。
購入。
視聴。
公式に届く評価。
制作側が参照しうる反応。

そこに「この演技には価値がある」と置く。

これは慰めではない。
応援メッセージでもない。
本人へのラブレターでもない。

世界への入力である。

この声優の演技には価値がある。
このキャラクターはこの声によって成立している。
この起用は成功している。
この方向で作品を作ることには意味がある。

そういう評価を、制作側、市場、業界、作品側の判断材料として置く。

本人を喜ばせるためではない。
本人に「分かってくれるファンがいる」と思わせるためでもない。

演技が評価される世界を作るためである。

声優を応援するとは、本人を慰めることではない。
演技が評価される世界を作ることである。

12. 行為別の取り違え診断

ここから、典型的な行為を見ていく。

重要なのは、行為そのものではない。
その行為は本質なのか、代替物なのか、おまけなのか。
そして、それをどこへ帰しているのかである。

作品や演技について声優があまり語らない

声優に作品や演技について語ってほしい。
その気持ちは分かる。

役作りの話。
収録時の話。
キャラクターへの理解。
演技で意識したこと。

語ってくれればありがたい。
作品理解の補助線にもなる。

しかし、声優の本業は、演技を語ることではない。
演技をすることである。

仕事をすることと、仕事を語ることは違う。

演技が本質であり、演技を語ることは補助線である。
ここを取り違えてはいけない。

古参村民は、過去のラジオやイベント文化を基準にして、「もっと語ってくれ」と言いがちである。

推し活村民は、「作品を大事にしているなら語ってほしい」「ファンに向き合ってほしい」と感情の問題にしがちである。

対象オタクでさえ、「演技を深く見たいから語ってほしい」と要求を強めることがある。

しかし、それは要求しすぎである。

演技は、言葉になる部分だけで成立しているわけではない。
直感、身体感覚、現場の空気、相手役との呼吸。
そうしたものの上に演技は成立している。

語ってくれたらありがたい。
しかし、それは本業ではなく、おまけである。

作品への誠実さは、まず演技に出る。
声優に語らせる前に、演技を見ろ。

「かわいい」と言う

「かわいい」は、本人性評価が職能評価を押し流す典型例である。

それはおまけである。
楽しんでもよい。
しかし、演技評価の中心に置いてはいけない。

アイドル性自覚型オタクなら、自分が本人性を楽しんでいると理解している。
その自覚があるなら、ひとつの娯楽である。

しかし、アイドル源流型の村民はここで誤読しやすい。

かわいい。
尊い。
好き。
癒やされる。

それが声優評価の中心になっていく。

すると、市場はそれを本人性需要として読む。
声優を演技者としてではなく、かわいさやファンサで反応を取れる存在として扱うようになる。

これは、おまけを本質に昇格させる取り違えである。

「かわいい」と言うな、ではない。

その言葉が、どの場で、何を押し流しているかを見ろ。

コメントを拾われる、名前を呼ばれる

これは嬉しい。

否定する必要はない。
人間だから嬉しい。

しかし、これは本質ではない。

コメント拾いや名前呼びは、作品世界から得られない応答の代替物である。
キャラクターに認識されたわけではない。
作品世界から応答されたわけでもない。
三次元側で、作品に接続する演者から反応が返ってきただけである。

ありがたい。
しかし本体ではない。あくまで代替物である。

アイドル源流型の村民は、更にここで誤読しやすい。

読まれた自分。
認知された自分。
推しに届いた自分。
界隈で共有される自分。

そこにアイデンティティを置く。

ここでは、代替物を本質化する取り違えに加えて,村の身分証へと変換している。

疑似フィードバックを本体にするな。

声優が売れて、遠くなる

声優が売れる。
イベントが減る。
接触機会が減る。
サイン会がなくなる。
本人性の露出より、演技の仕事が増える。

対象オタクなら、これは喜ぶべきことである。

寂しさはある。
それは自然である。

しかし、その寂しさは、距離の近さや本人性への反応であって、声優の職能評価の本質ではない。

接触機会や距離の近さは本質ではない。
それはおまけであり、ときに疑似フィードバックという代替物である。

声優にとっての本質は、演技で呼ばれることである。
作品の中で声が機能することである。

したがって、演技仕事が増えて本人性の露出が減るなら、それは本質に近づいている。

アイドル源流型古参村民は、ここで誤読しやすい。

昔は近かった。
売れる前から知っていた。
自分たちが支えてきた。
遠くなってしまった。

そう感じる。

しかし、それは声優のキャリアを自分の歴史の一部として所有している。

距離の近さを本質化すると、「遠くなった」「支えてきたのに」という古参村の物語に落ちる。

寂しさを感じること自体は否定しない。
ただし、それがアイドル性への反応であると理解しているなら、それは自分の中で処理すべき感情である。

表に出して、声優本人や界隈や市場に向けて正当化するものではない。

声優が本人性で消費される場から離れ、作品の中で届くなら、それは成功である。

寂しさを抱えたままでもよい。
それでも、遠くなることを否定はするな。

交際・結婚情報が出たとき

声優の結婚、交際、恋人の存在、私生活の情報が出たとき、声優オタクの源流の差異は露骨に表れる。

対象オタクにとって、それは本質ではない。

声優の本質は、キャラクターを成立させる演技である。
私生活は、声優の職能評価における本質ではない。

それは本人の人生であり、演技評価の外側にある。

本人の人生を祝うことはあっても、それによって演技評価が変わるわけではない。

しかし、アイドル源流型ではそうはいかない。

本人性を本質化していると、私生活情報は商品価値の毀損や、村の秩序処理の材料になる。

アイドル源流型古参村民は、ここで怒りやすい。

売れる前から見ていた。
昔からイベントに通っていた。
自分たちが支えてきた。
近い距離にいたと思っていた。

その過去の記憶が、私生活情報によって遡及的に書き換えられる。

「あの頃からそうだったのか」
「あのイベントは何だったのか」
「自分たちが見ていた時間は何だったのか」

こうして、本人の私生活は、古参村の思い出を汚すものとして処理される。

一方で、アイドル源流型推し活村民は、逆方向に動く。

祝え。
不満を出すな。
本人の幸せを喜べ。
本当のファンなら祝福しろ。

これは一見、本人を尊重しているように見える。
しかし、これもまた村である。

そこでは、本人の人生そのものよりも、村がどう正しく振る舞うべきかが問題になっている。
祝福できない者を排除し、正しいファン共同体の空気を守ろうとする。

怒る古参村も、祝わせる推し活村も、構造は同じである。

どちらも、声優本人の人生を村の秩序維持に使っている。

結婚や恋人の存在が問題なのではない。
それが問題になってしまうほど、声優を演技者ではなく本人性商品として消費してきたことが問題なのである。

私生活情報で傷ついたなら、まず見るべきは本人ではない。
自分が何を消費していたのかである。

祝福したいなら、静かに祝えばよい。
傷ついたなら、自分の中で処理すればよい。
どちらにせよ、それを村の正しさに変えるな。

アンケートや感想に演技評価を書く

これは本人への通信ではない。

本人に届かなくてよい。
本人に通じなくてよい。
本人が喜ばなくてよい。

これは世界への入力である。

ここで本質にすべきなのは、本人に届くことではない。
演技評価が世界に入力されることである。

対象オタクは、ここを間違えてはいけない。

この演技には価値がある。
このキャラクターはこの声によって成立している。
この声優を演技者として起用する意味がある。

そういう評価を、作品側、制作側、市場側に置く。

アイドル源流型の村民は、ここで誤読しやすい。

本人に届いてほしい。
喜んでほしい。
分かってほしい。

その気持ちは自然ではある。

しかし、それを目的にすると、評価はすぐに本人性の回路へ入る。

本人に届くことは、あっても副産物でよい。
本質は、演技が評価される世界へ言葉を置くことである。

必要なのは、本人に届く言葉ではない。
演技が評価される世界へ置かれる言葉である。

13. 推しを守るな、演技が評価される世界を作れ

声優オタクは、推しを守りたがる。

推しを傷つけたくない。
推しを支えたい。
推しを悲しませたくない。
推しを応援したい。

その気持ちは分かる。

しかし、「推しを守る」という言葉は危うい。

多くの場合、守っているのは本人ではない。
推しを中心にした村の空気である。
推しを応援している自分のアイデンティティである。
推し活の共同体そのものである。

声優は、あなたに守られるために存在しているのではない。
声優は、キャラクターを成立させる職能者である。

だから、声優オタクが本当にすべきことは、推しを守ることではない。

演技が評価される世界を作ることである。

かわいいで終わらせるな。
認知で終わらせるな。
ファンサで終わらせるな。
誕生日で終わらせるな。
村の空気で終わらせるな。

声優が演技者として呼ばれる世界を作れ。

結 声優オタクの最終目的地

声優オタクの最終目的地は、本人に近づくことではない。

認知されることでもない。
誕生日を祝うことでもない。
ファンサを得ることでもない。
イベントで前方に座ることでもない。

最終目的地は、声優が演技者として評価されることである。

キャラクターを成立させる演技が届くこと。
作品の中で声が機能すること。
その演技によって作品が強くなること。
そして、その演技がまた次の仕事へつながること。

声優を見るな、とは言わない。
本人性を楽しむな、でもない。
ラジオを聴くな、イベントへ行くな、サインを喜ぶな、でもない。

ただし、本質を取り違えるな。
代替物に住むな
おまけを中心にするな。

声優は、あなたの関係性を満たすための存在ではない。
声優は、キャラクターを成立させる職能者である。

だから声優オタクなら、最後は作品へ帰れ。

キャラクターへ帰れ。
演技へ帰れ。

世界を動かすなら、演技が評価される方向へ動かせ。

本人性に近づくな。
演技が評価される世界を作れ。

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