はじめに
本作『超かぐや姫!』は、かなり変なアニメだ。
物語が難解だからではない。むしろ逆である。徹底してシンプルで、出来事が起きては次へ進む。説明も薄い。心理描写も薄い。近代ドラマ的な積み上げも薄い。
それなのに、観客側の鑑賞習慣を妙に炙り出してしまう。その結果、ネット上では評価が割れる。
「説明不足だ」「浅い」「雑だ」と怒る人がいる。一方で、「八千年の重みで泣いた」「今年最高だった」と熱狂する人もいる。
この割れ方は、作品の出来が単に不安定だから起きているのではない。本作が、観客の持ち込む定規をかなり意地悪に露出させる作品だから起きている。
先に言っておく。
本作の本体は、重厚な人間ドラマではない。最初から意図して用意された、透明な遠浅のプールである。
浅いという言葉も、ここでは欠点の意味ではない。省略が欠落ではなく、作法として成立しているという意味だ。本作は深い物語を作ろうとして失敗した作品ではない。浅いことを選び、その浅さを濁らせずに走り切った作品である。
1. おとぎ話としての割り切り
近代ドラマの約束事を捨てる
この作品は、近代的なドラマの約束事を最初からかなり捨てている。
心理の変遷を丁寧に追い、葛藤を積み上げ、整合的に決着へ運ぶ。キャラクターが悩み、考え、選び、その結果として行動が変わる。そういう設計思想は、本作では中心に置かれていない。
本作が採用しているのは、おとぎ話の出来事主義である。
象徴的なのは導入だ。ヤチヨのおとぎ話フォーマットのナレーションから始まり、七色に光るゲーミング電柱から赤ちゃんが出てくる。彩葉はそれを家に連れ帰る。気づけば赤ちゃんは同年代の少女になっている。そして彩葉は、ほとんど理屈を挟まずに「かぐや姫だ」と直感する。
説明は薄い。筋も雑だ。
だが、この雑さはミスではない。おとぎ話の導入そのものだ。
竹から子どもが出てくる。老人夫婦が拾う。美しく育つ。そういう出来事に対して、近代的な意味での制度説明や心理的説得を求めること自体がズレている。
本作は最初から「こういうことが起きた」とだけ宣言し、観客を置いて走り出す。理屈ではなく型で進める。ここでついてこられない観客は、かなり早い段階で振り落とされる。
宿命の受容
終盤も同じだ。
月のお迎えが迫り、逃げられないバッドエンドが可視化される。普通のドラマなら、ここで絶望し、抵抗し、選択し、決断して行動する。だが本作は、その長い道を歩かない。かぐやは深い絶望や抵抗のプロセスを長く引かず、早々に「仕方ない」と受け入れ、最後のライブへ舵を切る。
近代ドラマの定規で見れば、不自然だ。葛藤が足りない。絶望が足りない。決断までの段取りが足りない。
しかし、ここは描写不足ではない。おとぎ話の型である。
おとぎ話は、葛藤の長さで人を納得させない。出来事の強度で押し切る。宿命は訪れる。受け入れられる。そして次の場面が始まる。この乱暴さこそが、おとぎ話の動力なのだ。
記号化された舞台装置
舞台装置の扱いも徹底している。
ヤチヨという名前に紐づけただけのダジャレのような八千年。ペラペラの2Dドット絵で描かれる月文明。地球と月の間にあるはずもない小惑星との衝突でタイムリープが失敗する都合のよさ。
これらにSF考証を求めるのは無粋である。ドラえもんの道具に対して、工学的な原理やエネルギー収支を問いただすようなものだ。
本作の月は、SF的な異世界ではない。おとぎ話の「月」である。月は世界設定として掘られる場所ではなく、「迎え」という出来事を発生させるための記号として置かれている。
本作は、深読みを誘っては梯子を外す。八千年、月文明、タイムリープ。深そうな記号を置く。だが物語はそこに着地しない。匂わせるが、掘らない。議論しない。
この挙動そのものが設計である。
かぐや姫だからである
そして、その設計を支えているのが竹取物語の引用だ。
竹取物語は、そもそも近代ドラマではない。竹から子どもが出てくる。美しく育つ。人々に見初められる。月から迎えが来る。帰る。そこに、現代的な意味での心理の積み上げや社会制度の説明はない。
だから、本作に対して「なぜかぐやは人々を惹きつけるのか」「なぜライバーとして成り上がるのか」と問うことは、竹取物語に対して「なぜ帝に見初められるのか」と詰めることに近い。
答えは単純だ。
かぐや姫だからである。
本作におけるライバーとしての成功は、職業的な成り上がりではない。かぐや姫が都で評判になり、帝にまで届く構造を、現代のインターネット空間に置き換えたものだ。
帝に見初められる代わりに、ネットに見初められる。都に噂が広がる代わりに、配信で拡散する。かぐや姫の美しさが人々を動かす代わりに、声、歌、かわいさ、ライブ性が観客を動かす。
ここを近代的な配信者ものとして読めば、伸びる過程が薄いと言いたくなる。
しかし本作は、そこを描くための作品ではない。
これは、かぐや姫の現代変換である。
2. なぜ評価が割れるのか
近代ドラマの定規
評価が割れるのは、作品の欠陥というより、観客が持ち込む定規が割れているからだ。
まず、「説明不足」「話が浅い」「雑だ」と感じる層がいる。
この層は、本作を現代的な人間ドラマとして測っている。キャラクターが苦悩し、ロジカルに解決策を導き出し、感情の積み重ねによって結論へ辿り着くことを求める。つまり、感情が出来事として流れるのではなく、判断と行動へ変換されることを要求している。
近代ドラマの定規で見れば、本作は薄い。
彩葉の一人暮らしも、親子のいざこざも、ライバーとしての成功も、月文明も、八千年も、十分には掘られない。
しかし本作は、その契約を最初から結んでいない。原典のかぐや姫に現代科学でツッコミを入れるのが無意味であるように、本作に近代ドラマの定規を当てはめれば、当然エラーが起きる。
観客による感情の補完
一方で、ヤチヨの八千年の重みで号泣した、今年最高のアニメだと熱狂する層もいる。
本作は、泣けと言っているわけではない。だが、泣くための余白はかなり用意している。
ヤチヨの八千年。ヤチヨの「Remember」。かぐやの月に帰る運命。最後のライブ。本編後のMV的な継続。これらの並びは、観客が勝手に感情を流し込める形をしている。
作品があえて描かなかった空洞に、観客がテンプレの悲劇性や健気さを注ぎ込む。
かぐや可哀想。
でも最後まで楽しんでいた。
健気。
八千年も待っていた。
やっと届いた。
それでも今を楽しもうとしている。
そういう情緒を、観客側が補完して完成させる。
さらに、作品が盛り上がっているという事実そのものも、補完を加速させる。多くの人が泣き、熱狂し、今年の代表作のように語っている。その空気の中にいると、観客は自分もこの作品を大きなものとして受け取りたくなる。盛り上がっているからこそ、さらに盛り上げたい。深く感じたい。その熱が、観客に自分の浮き輪をより大きく膨らませる。
ここで、同じ作品を見たはずの観客が別の水深を語り始める。
批判側は近代ドラマの定規で測定して、「膝下しかない」と言う。熱狂側は自分で膨らませた浮き輪に浮かびながら、「足が届かないので深海だ」と言う。
どちらも半分当たっている。
遠浅は遠浅だ。
だが、それはおとぎ話として誠実に設計された水深でもある。
そして本作は、ただ「おとぎ話だから浅くてよい」と開き直っているだけではない。そこにもう一段、意地の悪い仕掛けがある。
3. 圧縮空気の意地悪さ
ボンベは置くが、水深は掘らない
本作は遠浅のプールである。水深そのものは深くない。
しかし、その浅瀬のそばには、近代ドラマ的な情緒が圧縮空気として置かれている。
ここで重要なのは、それが自然な空気ではないということだ。作品全体にじんわり満ちている情緒ではない。プールサイドにガスボンベがゴロンと転がされているような置かれ方をしている。
八千年。親子の確執。推しへの救済。月からの迎え。別れ。成り上がり。かぐや可哀想。でも最後まで楽しんでいた。健気。
これらは、作品内で丁寧に掘られた水深ではない。近代ドラマとして成熟した情緒でもない。かなり雑に、しかし強い圧力をかけて詰め込まれた感情のボンベである。
観客が持ち込む浮き輪は、そこに接続される。
推し文化の浮き輪。悲劇の浮き輪。百合の浮き輪。親子和解の浮き輪。竹取物語の浮き輪。ライブ体験の浮き輪。そして、かぐやを健気な存在として受け取る浮き輪。
観客は自分の浮き輪を持ち込み、作品が転がしているボンベのバルブをひねる。すると、本来は膝下の遠浅でしかないプールでも、人によっては深い水に浮かんでいるように感じる。
ここが本作の意地悪さである。
水深は掘らない。
だが、ボンベは置く。
しかも、そのボンベは丁寧に配管されているわけではない。むき出しで、雑に、ラベル付きで置かれている。
舞台装置としての親子のいざこざ
親子のいざこざもそうだ。
これは彩葉の内面を掘るための重厚な親子ドラマではない。彩葉を一人暮らしさせ、かぐやを受け入れる空間を作り、現代の竹取物語を始めるための舞台装置である。
竹取物語に竹林と翁が必要だったように、本作には現代の竹林として、彩葉の一人暮らしの部屋が必要だった。そのための親子の切断である。
そこから観客が親子和解の浮き輪を膨らませることはできる。だが、それは作品内で深く掘られた水深ではなく、観客側が持ち込んだ感情の浮力である。
八千年と健気さ
ヤチヨの八千年も同じだ。
八千年という時間は、それ自体としてはとてつもなく重い。しかし本作は、その八千年を時間の重みとして丁寧に掘らない。ヤチヨという名前に紐づいた洒落のように置き、そこに「Remember」という楽曲の情緒を重ねる。観客はそこに、自分の中の悲劇性や待ち続ける健気さを流し込む。
かぐやの運命も同じである。
月に帰る。帰りたくない。最後まで楽しむ。健気だ。そう感じる余地は十分にある。しかし本作は、それを重厚な悲劇として掘り切らない。最後のライブへと切り替えることで、悲劇性を「今を楽しむ」方向へ流していく。
こうして本作は、観客をかなり精密に仕分ける。
自分の持ち込んだ浮き輪を大きく膨らませて泣く観客。足がつくことに怒る観客。浅いと知ったうえで踊る観客。
本作は単なる泣かせの作品ではない。
人が何によって泣くのかを試す観客実験である。
作品内で十分に掘られたドラマによって泣くのか。おとぎ話の型によって泣くのか。推しやライブや別れという記号に、自分の感情を注入して泣くのか。それとも、浅さに耐えられず怒るのか。
本作の意地悪さは、浅いことそのものではない。浅いまま、観客が持ち込んだ浮き輪を膨らませるための圧縮空気ボンベを、雑に、強く、わかりやすく配置していることにある。
しかも、その浅さを隠しきってはいない。
竹取物語の引用、SF考証のペラさ、出来事主義、そして作中で繰り返される「深く考えずに今を楽しめ」という態度によって、作品はかなり明確に言っている。
これは深海ではない。
だが、あなたは何の浮き輪を持ち込み、どこまで膨らませるのか。
その問いが、本作のもっとも面白い実験性だ。
4. 遠浅プールの美学と、今を楽しもうの肯定
軽すぎるスローガン
深いテーマを描こうとして浅くなった作品は悪い。構造が崩れているからだ。
だが本作は、浅いことを自覚し、そのルールを最後まで守っている。遠浅を選び、濁らせない。おとぎ話の型を崩さない。
本作が抽出するのは、議論や総括ではない。もっと単純で、もっとポジティブな態度だ。
今を楽しもう。
この言葉は軽い。軽すぎる。だからこそ、この作品に合っている。
彩葉は、未来に向けて壊れるほど「よくわからない」努力をしている。一方で、かぐやは今を楽しむ。彩葉はその軽さに感化され、最後には目的意識のある努力へと舵を切る。
ここには成長物語の体裁がある。
しかし、それに付随する犠牲や代償は議論されない。一段抽象化すれば、「頑張って今を生きよう」というスローガンだけが残る。
普通の近代ドラマなら、このスローガンを論証しようとする。なぜ努力するのか。何を犠牲にしたのか。何を得たのか。未来と現在のどちらを選ぶのか。
本作は、そうした議論をしない。論証しないかわりに、素材の力で肯定を通す。
ええじゃないかとしてのライブ
月に帰る運命の重さを描き切ってカタルシスを作るのではなく、重さが見えている状態のまま、楽しさで上書きする。倫理的に正しいかどうかは議論しない。議論しないかわりに、歌と声と映像の強度で肯定してしまう。
これはかなり「ええじゃないか」に近い。
理屈ではない。正しさでもない。だが、いま踊る。いま歌う。いま楽しい。その運動によって、重さを一度横に置く。
本編後のMV「Ray」で描かれる継続も、この設計を完成させる。
そこで描かれるのは、結末の総括ではなく、歌って踊る日常が続くという手触りだ。重く閉じない。まとめない。続いていく。議論で決済するのではなく、反復で決済する。
遠浅のまま着地する。
この態度は、近代ドラマ側から見ればかなり乱暴だ。葛藤を掘らない。因果を積まない。重さを引き受けない。だが、本作はその乱暴さをおとぎ話の作法として引き受けている。
文化全体が遠浅プールだけになれば、それは貧しい。だが本作は、その一例として存在するからこそ面白い。
重厚な近代ドラマもある。構造の深い作品もある。徹底した娯楽作もある。その中に、観客の浮き輪反応を試すような、透明な浅瀬の実験作品が混ざっている。
本作は、ネトフリマネーを使った、かなり贅沢な観客実験でもある。
どこまで近代ドラマを抜けるか。どこまでおとぎ話の型だけで現代人を浮かせられるか。どこまで観客の補完力に任せられるか。そして、その浅さにどれだけの人が怒るか。
本作は単なる軽い作品ではない。軽さを使って、観客の物語観を測定する作品である。
5. 定規を捨てて、今を踊れ
素材の暴力
この作品を成立させている最大の功労者は、素材の暴力だ。
声優陣の演技、歌唱、映像、数々のMV。ここが一級品すぎる。
遠浅の構造は、その素材を濁らせずに通す透明な器として働く。ドラマを深めるための構造ではない。鼓膜と網膜に直で叩き込むための構造だ。
だから鑑賞法もはっきりする。
設定の矛盾探しに没入するのも、過剰な悲劇を勝手に補完して涙を搾り取るのも、作品の外側で起きる遊びとしては自由だが、本作の芯ではない。
本作の芯は、声と今である。
スクリーンの中で彼女たちが全身全霊で肯定した今という光に身を委ね、理屈ではなく身体で受ける。
中身は重くない。リアリズムも薄い。水深も深くない。
だが、そこにある声と今だけは本物だ。
近代ドラマの定規を手放せない人は、この作品に怒る。その怒りは、作品の欠陥を暴くというより、本作が仕掛けた実験に捕獲されている。
本作は、近代ドラマ側に対してかなり挑発的に言っている。
おとぎ話の作法を読め。
それでも水深を要求するなら、あなたはまだ近代ドラマの定規を握っている。
本作は深海のふりをした失敗作ではない。遠浅であることを示しながら、プールサイドに圧縮空気のボンベをゴロンと置き、観客が持ち込んだ浮き輪をどこまで膨らませるかを見ている。
かなり意地悪だ。
だが、その意地悪な仕分けを、精密に、堂々とやっている。だから本作は面白い。
心太としての『超かぐや姫!』
だからこそ、本作は噛み締める作品ではない。
鑑賞後、最初に直感したのは、本作は心太のようなアニメだということだった。
心太は不思議な食べ物だ。噛めばすぐにちぎれる。単体ではほとんど味がない。栄養もない。腹にもたまらない。ポン酢や酢醤油をかけて、ようやく食べ物として立ち上がる。
だが、それでも心太は旨い。
あの透明さ、冷たさ、頼りないほどの軽さ、喉を通る一瞬の気持ちよさ。濃厚な旨味ではなく、味の薄さそのものが快楽になる。
本作もそれに近い。
近代ドラマとして噛み締めれば、すぐにちぎれる。設定にも栄養は少ない。人間ドラマとしての肉厚さもない。
だが、声と歌と映像というポン酢がかかった瞬間、透明なまま身体を通っていく。その喉越しは、確かに気持ちいい。
ステーキのほうが好きだと言うのは自由だ。だが、心太に肉汁を求める批評は、心太を見ていない。
問うべきは、重かったか、濃かったかではない。冷えていたか、透明だったか、喉越しがよかったかである。
その点で、本作はよくできている。
深くはない。
だが、濁ってもいない。
定規をいったん捨てて、一緒に踊る。
あるいは、心太を心太として啜る。
それがこの作品の作法であり、設計が求めている最適解だと思う。

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