ゾンビランドサガ論その2――巽幸太郎とゆうぎり、抽象的な呪いを足元の泥に変える装置

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ゾンビランドサガ論・連作案内

本稿は、『ゾンビランドサガ』を「ポストエヴァの終焉」として読む連作の第2回である。


はじめに:なぜ巽幸太郎とゆうぎりを見る必要があるのか

前稿では、『ゾンビランドサガ』における主体性を、自己引き受けと自己始発の循環として整理した。

主体性とは、単に自分から動くことではない。
自分で始めたわけではない初期条件や、世界から返ってきた反応を引き受け、そのうえで次の行為を世界へ返すことである。

では、その循環はどのように回り始めるのか。

人は、抽象的な世界全体をそのまま引き受けることはできない。

世界の命運。土地の呪い。
歴史的使命。共同体の消滅。未来への責任。

そうした巨大なものを直接渡されても、それは主体性を生むどころか、個人を押し潰してしまう。

必要なのは、引き受け可能な大きさの現場である。

今日の仕事。今日の客。
今日の失敗。今日の佐賀。

この大きさまで落ちて初めて、人は世界から返ってきたものを自分の物語に組み込める。

その変換を担っているのが、巽幸太郎である。

一方で、ゆうぎりは、他のメンバーとは異なり、すでに一度「生き尽くした」存在である。

彼女にとってゾンビとしての再生は、人生のやり直しではない。
それは、完結した人生の後に与えられた余生である。

幸太郎は、抽象的な呪いを足元の泥へ変換する。
ゆうぎりは、生き尽くした後の静けさを示す。

この二人を見ることで、『ゾンビランドサガ』がなぜ説教なしに実存肯定を成立させられるのかが、よりはっきり見えてくる。

巽幸太郎――意味ではなく、現場を与える男

巽幸太郎という男は、本作において最も理解しづらく、同時に最も重要な存在である。

彼はしばしば、「狂気のプロデューサー」として扱われる。
それは間違いではない。
彼の言動は明らかに異常であり、常識的な意味でまともな人物とは言いがたい。

だが、彼を単なる変人として見てしまうと、この作品の核心を見誤る。

幸太郎は、佐賀にかかった巨大な呪いのスケールを知っている人物である。

佐賀は滅びる。
放っておけば、この土地は歴史の中で静かに消耗し、忘れ去られる。

この巨大な問題を、作中で真正面から引き受けているのは幸太郎だけである。

しかし幸太郎は、その事実をフランシュシュにそのまま渡さない。

ここで幸太郎がしていることは、大きく二つある。

第一に、佐賀の呪いをそのまま渡さないこと。

第二に、フランシュシュに意味を外から与えないこと。

この二つが重要である。

前稿で述べたように、主体性とは、自己引き受けと自己始発の循環である。

世界から返ってきたものを、自分たちの物語の外部ではないものとして引き受ける。
そのうえで、次の行為を世界へ返す。

この循環が回るためには、世界が引き受け可能な大きさでなければならない。

佐賀の呪いをそのまま渡されても、人間は引き受けようがない。
土地の滅亡を背負えと言われても、普通は困る。困るというより、押し潰される。

それは人間の手に余る問いである。地に足がついていない。

だから幸太郎は、佐賀の呪いをそのまま語らない。

彼はたしかに「佐賀を救え」と叫ぶ。
だが、それは「佐賀にかかった呪いを解け」という意味ではない。

彼が渡すのは、もっと表面的で、具体的で、泥臭い言葉である。

佐賀を盛り上げろ。客を沸かせ。
アイドルとして現場を成立させろ。

つまり幸太郎は、佐賀の呪いという抽象的で巨大な問題を、町おこしという具体的なタスクへ変換している。

もう一つ、幸太郎はフランシュシュに意味を外から与えない。

「君たちは尊い」
「君たちには生きる意味がある」
「君たちは佐賀を救うために選ばれた存在だ」

彼はそう言わない。むしろフランシュシュを雑に扱う。

そう言ってしまえば、フランシュシュは別の形で理念の器になってしまう。
生きる意味を、外部から与えられた存在になってしまう。

「あなたには意味がある」と言われることは、一見優しい。
しかし、その意味が外から与えられるなら、それは別の拘束となる。

自分で始める前に、何のために動くべきかを決められてしまうからだ。

佐賀の呪いをそのまま渡せば、自己引き受けできない。
意味を外から与えれば、自己始発できない。

だから幸太郎は、そのどちらもしない。

そこで、幸太郎は現場を作っている。

今日の客がいる。
今日の失敗がある。
今日の営業がある。
今日の佐賀がある。

そこには手触りがある。
反応が返ってくる。
失敗しても、次がある。
仲間とぶつかり、またやり直せる。

現場とは、抽象的な世界が、フランシュシュの手に触れる大きさまで小さくなった場所である。

手に触れるから、引き受けられる。
引き受けられるから、次の行為を返せる。

幸太郎は、意味の代わりに現場を与える。
使命の代わりに、今日の仕事を与える。
尊厳を説明する代わりに、客前へ立たせる。

彼は彼女たちの内面を掘らない。
夢を聞かない。
生きる意味を語らせない。

ただ、反応の返る場所へ置く。

その反応を引き受けたとき、幸太郎にやらされていた仕事は、フランシュシュ自身の次の行為へ変わっていく。

最初は、やらされていた。
だが、返ってきた世界を引き受けるうちに、次のステージは自分たちのものになる。

幸太郎は、フランシュシュに主体性を与える人物ではない。
主体性は、外から与えられるものではないからだ。

彼がしているのは、佐賀の呪いを現場へ変換し、意味を外から与えないことによって、自己引き受けと自己始発の循環が回り始める条件を作ることである。

ゆうぎり――現代的主体性を問われない時代を生き尽くした者

次に、ゆうぎりを見る必要がある。

フランシュシュは、異なる時代の死者たちによって構成されている。

明治。昭和。平成。

それぞれの時代に、それぞれの拘束条件がある。

時代は、個人の生き方を縛る。
社会の価値観も違う。
許される選択も違う。
女性の生き方も、芸能のあり方も、家や国家との関係も違う。

しかし、フランシュシュのメンバーの中でゆうぎりだけは、明らかに異質である。

彼女だけ明治時代の人物である。この意味は何か。

ゆうぎりが生きた時代には、現代的な意味での「主体性」は、まだ前提になっていない。

夢を語ること。
自分らしさを説明すること。
自分の内面から人生の意味を掘り出すこと。

そうしたものが当然のように要求される時代ではない。

先にあるのは、家であり、身分であり、土地であり、時代であり、国家の変動である。
個人は、その巨大な拘束条件の中で生きるしかなかった。

だから、ゆうぎりの主体性は、現代的な自己表明としては現れない。だからと言って主体性がないわけがない。

彼女は「私はこうありたい」と語って主体になるのではない。
与えられた時代条件の中で行為し、その帰結としての死まで引き受けることで、主体として完結している。

他のメンバーの死は、多くの場合、「道半ばで奪われた死」である。

事故。挫折。未練。やり残し。

彼女たちは、人生を完結させる前に死んだ存在である。
だからゾンビとしての再生は、止まった時間をもう一度動かすことに近い。

だが、ゆうぎりは違う。

彼女は生前に、すでに一度、自分の人生を生き切っている。

明治という、旧い規範が崩れ、新しい国家の理念が立ち上がっていく時代。
個人の生が、家、土地、身分、国家、時代の転換と直接に絡み合う時代。

その中で彼女は、自分の置かれた条件を嘆くだけでなく、その条件の中で選び、動き、その帰結としての死まで引き受けた。

彼女の死は、単なる中断ではない。
それは、彼女自身の行為の帰結として引き受けられた死である。

つまり、ゆうぎりは生前に一度、生き尽くした者なのである。

前稿の言葉で言えば、ゆうぎりは自己引き受けをすでに終えている。

自分が生まれた時代。置かれた身分。
与えられた役割。許されなかった選択。
それでも選び取った行為。
そして、その帰結としての死。

それらを、彼女は自分の物語の外部に置いていない。

「時代が悪かった」
「環境が悪かった」
「本当の私は別にいた」

そういう形で、自分の人生を宙吊りにしていない。

痛みがなかったわけではない。
苦しみがなかったわけでもない。

しかし、それらは未処理の傷として残っているのではなく、すでに彼女の人格の中へ沈み込んでいる。

だから、ゆうぎりには妙な静けさがある。

彼女は何者かになろうとして焦っていない。
自己証明に追われていない。
世界から承認されようとしていない。

彼女は、やり直したい顔をしていない。

すでに一度、生き尽くしているからだ。

ゆうぎりにとって再生は「やり直し」ではない

この違いは、物語上の扱いにも表れている。

ゆうぎりには、他のメンバーに見られるような「乗り越えるべき壁」が見られない。

過去がトラウマとして噴き出すことも少ない。
何者かになれなかった悔しさに駆動されているわけでもない。
未完の夢に追い立てられているわけでもない。

なぜなら、彼女の過去は、すでに彼女の中で整理されているからだ。

だから、ゆうぎりにとってゾンビとしての再生は、人生の「やり直し」ではない。

それは、完結した人生の後に与えられた余生である。

ここが、ゆうぎりの非常に美しいところである。

彼女にとって、ライブも、仲間との日々も、佐賀での活動も、失われた人生の補填ではない。

それは、余った時間を、もう一度世界と接続するための穏やかな機会である。

生き直しではない。
やり直しでもない。

生き尽くした後に、なお世界と関わる時間。

それが、ゆうぎりにとっての再生である。

余生としての、静かな世界との接続

ゆうぎりに与えられた時間は、若い衝動の延長ではない。

「私はこうなりたい」
「私は認められたい」
「私はまだ終われない」

そうした切実さによって駆動される時間ではない。

彼女は、すでに命を賭けて生きた。
すでに時代と向き合った。
すでに選び、引き受け、終えた。

その後に、もう一度与えられた時間。

それは、失われた人生を取り返すための時間ではない。
自己証明のための時間でもない。
未完の夢を回収するための時間でもない。

生き尽くした後に、なお世界と関わる時間である。

フランシュシュの多くは、未完成のまま死なされた者たちである。
だから彼女たちの輝きは、動的である。

走る。歌う。ぶつかる。取り戻す。前へ進む。

一方で、ゆうぎりの輝きは静かである。

彼女は過去に追い立てられていない。
未来に急かされてもいない。
ただ、今ある時間を、そのまま受け取っている。

これは、実存肯定のひとつの到達点である。

主体性とは、必ずしも「これから何者かになる、何かをする」ことだけを意味しない。

自分の初期条件を引き受け、世界から返ってきたものを引き受け、行為の帰結まで引き受けた後には、もう焦らなくてもよい時間がある。

ゆうぎりは、その時間を生きている。

何かを取り戻すためではなく、何者かになるためでもなく、ただ余生として、もう一度世界と穏やかに接続している。

山田たえ――主体性を人間の資格にしないための担保

ここで、山田たえにも触れておきたい。

前稿でも述べたように、山田たえには、自己引き受けと自己始発の循環がこちらからは見えにくい。

言葉を持たない。
理路整然と自分を語ることもない。
野生のままそこにいる。

フランシュシュが「自己引き受けと自己始発の循環によって主体になっていく」存在だとすれば、山田たえはその対極にいる。

では、山田たえは価値の低い存在なのか。

そうではない。

むしろ山田たえは、この作品が主体性を暴力にしないための、重要な存在論的担保である。

もし『ゾンビランドサガ』が、行為する者だけを肯定する作品だったなら、そこには別の残酷さが生まれていた。

動け。選べ。主体的であれ。生き尽くせ。

それは一歩間違えれば、新しい命令になる。

だが山田たえがいることで、その危うさは回避される。

山田たえは、行為できなくても否定されない。
言葉を持たなくても、仲間としてそこにいる。
明確な主体性の循環が見えなくても、その存在は受け止められる。

つまり彼女は、こう示している。

主体性は大事だ。
しかし、主体性を人間の資格にしてはいけない

この一点があるから、『ゾンビランドサガ』の実存肯定は押し付けにならない。

三層構造――動、静、完結

ここまで見てくると、『ゾンビランドサガ』の実存肯定は、単純な「前向きに頑張ろう」という話ではないことが分かる。

本作には、少なくとも三つの位相がある。

フランシュシュ:動

未完成のまま死なされた者たちが、行為を通して主体を立ち上げていく。

これは動的な実存肯定である。

走る。歌う。失敗する。ぶつかる。
また立つ。

彼女たちは、世界から返ってきたものを引き受け、次の行為を返すことで主体になっていく。

山田たえ:静

行為も言語も明確ではない。

それでも、そこにいるだけで肯定される。

これは静的な実存肯定である。

主体性の循環が明確に観測されなくても、存在は否定されない。
「いる」こと自体が、世界との接続になっている。

ゆうぎり:完結

すでに一度、生き尽くした者が、余生として世界と穏やかに接続する。

これは成熟した実存肯定である。

何者かになるためではなく、何かを取り戻すためでもなく、ただ与えられた時間を受け取り、世界と関わる。

この三層の実存肯定があるから、『ゾンビランドサガ』は強い。

行為する者を肯定する。
行為できない者も否定しない。
生き尽くした者には、余生の自由を描く。

この設計によって、本作は「生きろ」という命令を回避しながら、なお力強く生を肯定している。

結論:世界を救うか、自分を選ぶか――その問い自体がもう必要ない

ポストエヴァ的な問いは、しばしば二者択一として現れる。

世界を救うのか。
自分を選ぶのか。

社会に適応するのか。
内面を守るのか。

他者を受け入れるのか。
自分の傷に閉じこもるのか。

しかし『ゾンビランドサガ』は、この二者択一を取らない。

幸太郎は、世界の呪いをそのまま渡さず、足元の現場へ変換する。
フランシュシュは、その現場で世界から返ってきたものを引き受け、次の行為を返す。
山田たえは、主体性の循環が明確に見えなくても存在が肯定されることを示す。
ゆうぎりは、生き尽くした後の余生として、世界と穏やかに接続する。

ここでは、世界と自分は対立していない。

世界とは、抽象的な重荷ではない。

佐賀である。
仲間である。
現場である。
今日の仕事である。
泥であり、客であり、歌であり、ステージである。

だから必要なのは、世界を背負うことではない。
世界から逃げることでもない。

必要なのは、自分が関与できる環境に、今日どう接続するかである。

この意味で、『ゾンビランドサガ』はエヴァ以降の袋小路を静かに解体している。

世界を救うか、自分を選ぶか。

その問い自体が、もう必要ない。

抽象的な呪いは、足元の泥に変換できる。

泥は汚れる。
不格好で、身体に残る。
しかし、泥は触れることができる。
洗い流すことができる。
転んでも、また立てる。

抽象的な呪いが人を押し潰すのに対して、足元の泥は、人が触れ、汚れ、やり直せる現実である。

そして人は、その泥の上で、歌い、踊り、笑い、転び、また立てばいい。

それが『ゾンビランドサガ』の示した、説教なき実存肯定である。

ゾンビランドサガ論・続き

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