ゾンビランドサガ論・連作案内
本稿は、『ゾンビランドサガ』を「ポストエヴァの終焉」として読む連作の第3回である。
- 第1回:ゾンビランドサガゆめぎんがパラダイス論――ポストエヴァの終焉と、「生き尽くす」哲学
- 第2回:ゾンビランドサガ論その2――巽幸太郎とゆうぎり、抽象的な呪いを足元の泥に変える装置
- 第3回:ゾンビランドサガ論その3――ゾンサガによる世界観と主体性理解の更新、エヴァのその先へ
はじめに:世界観とは、自己引き受けの設計図である
前二稿では、『ゾンビランドサガ』における主体性を整理した。
主体性とは、自己引き受けと自己始発の循環である。
自己引き受けとは、初期条件、環境、出来事、結果を、自分の人生の外部ではないものとして認識することである。
自己始発とは、その引き受けのうえで、次の行為を自分から世界へ返すことである。
この循環が回るためには、条件がある。
世界が、引き受け可能な大きさでなければならない。
世界が大きすぎれば、人は引き受けようがない。
世界が遠すぎれば、行為は届かない。
世界が抽象的すぎれば、反応が返ってこない。
つまり、自己引き受けが成立するかどうかは、個人の意志だけの問題ではない。
その人物が置かれた世界の設計に、深く依存している。
ここで、世界観という言葉を使いたい。
ただし、ここでいう世界観とは、単なる設定のことではない。
魔法があるとか、ロボットがあるとか、異世界であるとか、そういう表層の話ではない。
ここでいう世界観とは、個人がその作品世界の中で、社会や環境とどのように接続されているのかという、関係の設計図である。
社会は個人を拒むのか、受け入れるのか。
行為は世界へ届くのか、届かないのか。
返ってきた反応は、自己引き受けへつながるのか、つながらないのか。
その設計が違えば、キャラクターが自己引き受けできる構造も変わる。
だから、世界観の変遷を見ることは、自己引き受けの可能性の変遷を見ることでもある。
本稿では、日本アニメにおける世界観の変遷を、この視点から読み直す。
戦前的世界観。
ジブリ的世界観。
ガンダム的世界観。
エヴァ的世界観。
そして、ゾンビランドサガ的世界観。
それぞれの設計の中で、個人と社会はどう接続されていたのか。
その接続の中で、主体性はどのように理解されていたのか。
そして、自己引き受けはどこまで届き、どこで止まったのか。
この二つを分けずに見る。
なぜなら、社会との接続方式が変われば、主体性の立ち上がり方も変わるからである。
本稿の二つの軸――社会接続方式と主体性理解
本稿で見る軸は二つある。
第一に、社会接続方式である。
個人は社会にあらかじめ所属しているのか。
社会から退いて生活圏を守るのか。
役割を通じて社会へ接続するのか。
あるいは、そもそも所属できないところから接続を作るのか。
第二に、主体性理解である。
主体性は、最初から内側にある意志なのか。
社会的役割を果たすことで形成されるものなのか。
内面を掘れば見つかるものなのか。
それとも、環境から返ってきた反応を引き受け、次の行為を返す循環の中で、後から立ち上がるものなのか。
この二つは別々の話ではない。
社会との接続方式が変われば、主体性の理解も変わる。
個人が国家や共同体にあらかじめ所属している世界では、主体性は拒否できない所属の中で成立する。
社会から退き、顔の見える生活圏を守る世界では、主体性は生命的な能動性として描かれる。
役割を通じて社会へ接続する世界では、主体性は組織内の働きや成果を通じて形成される。
接続回路が壊れた世界では、主体性は宙吊りになる。
そして『ゾンビランドサガ』では、主体性は所属なしに、環境応答の循環として立ち上がる。
本稿で見たいのは、この変遷である。
戦前的世界観――拒否できない所属と、強い自己引き受け
戦前的な世界観では、個人は社会にあらかじめ所属している。
家がある。土地がある。身分がある。共同体がある。国家がある。時代がある。
個人は、それらから自由に切り離された存在として生きているわけではない。
最初から、何らかの場所、役割、関係の中に置かれている。
戦前的世界観での社会接続方式は、所属である。
しかも、その所属は選択によるものではない。
自分で選んで共同体に入るのではない。
自分で選んで家に属するのでもない。
生まれた時点で、すでにその中にいる。
この設計の中では、自己引き受けはある意味で強い。
与えられた時代、家、身分、役割。
それらは自分で選んだわけではない。
しかし、それらを「自分の人生の外部ではない」と認識することは、この世界観では当然の前提として求められる。
選択の余地はない。
しかし、引き受けは起こる。
ここでの主体性は、自由な選択の結果として立ち上がるものではない。
むしろ、与えられた所属の中で、自分の役割や行為や帰結を引き受けることによって成立する。
この設計においては、個人の自己引き受けは比較的スムーズに見える。
与えられた条件の中で行為し、その帰結を引き受ける。
そこに、主体性の形が生まれる。
しかし、この構造には深刻な問題がある。
マクロが暴走したとき、個人はそれに逆らう根拠を失う。
国家が命じる。大義が命じる。家が命じる。共同体が命じる。時代が命じる。
そのとき、個人の痛みや損耗は、マクロの目的の前で二次的なものとして消される。
自己引き受けが強いことは、常に良いことではない。
拒否できない所属の中で成立する自己引き受けは、個人を支える一方で、個人を逃がさない。
ここに、後の日本アニメが何度も問い直すことになる問題の根がある。
ジブリ的世界観――ミクロへの退避と、生命的主体性
戦後、日本の物語はマクロへの深い不信を抱えることになった。
国家は個人を守らなかった。
大義は生活を破壊した。
信じていた巨大なものが、個人を消費した。
その反動として生まれた世界観のひとつが、ジブリ的な設計である。
もちろん、ジブリ作品は一枚岩ではない。
作品ごとに射程も思想も違う。
しかし、大きく見るなら、そこには戦後的な「生活の聖域化」がある。
ジブリが守ろうとしたのは、生活の手触りである。
食べること。働くこと。誰かと出会うこと。目の前の相手を助けること。風を感じること。
この世界では、マクロな社会や国家は、主役ではない。
むしろ、ミクロな生活圏を脅かす外部として描かれることが多い。
ジブリにおける社会接続方式は、切断である。
ただし、それは単なる逃避ではない。
戦前的なマクロに個人を差し出さないための、倫理的な切断である。
国家のために死ぬな。大義のために生命を差し出すな。
社会のために身体を潰すな。
まず食べろ。まず働け。まず目の前の人を助けろ。
まず生き物として生きろ。
そこにジブリの強さがある。
この設計の中で、主体性はどう理解されるか。
ジブリ的世界観において、主体性は社会的役割よりも前にある。
食べる。走る。飛ぶ。助ける。触れる。
目の前の世界に応答する。
それは、社会から与えられた役割を引き受ける主体性ではない。
もっと生命的な能動性である。
人間は、社会に所属する前に、まず生き物である。
身体がある。腹が減る。怖がる。怒る。泣く。誰かを助けようとする。
この意味で、ジブリの主体性はかなり生命的である。
主体性は、社会によって作られるというより、社会より前にある。
むしろ社会や国家や産業や大きな物語は、その生命的主体性を歪め、奪い、巻き込んでいく危険を持つ。
だからジブリは、大きな社会から退く。
この設計の中で、自己引き受けは豊かに成立する。
自分がここで食べた。自分がここで働いた。自分がここで誰かを助けた。
それらは、紛れもなく自分の物語に属する。
しかし、その自己引き受けは、ミクロの内部に閉じやすい。
「世界を救え」と言われても、ジブリ的なキャラクターは動きにくい。
それは冷淡だからではない。
抽象的な社会目的に人間を差し出すことへの構造的な警戒があるからだ。
マクロは外部の危険として描かれる。
だから、マクロとの接続は切断される。
自己引き受けは成立する。
しかし、それは顔の見える範囲、手の届く範囲に限定される。
社会を「自分たちが作るもの」として引き受けることは、この設計では起きにくい。
ジブリ的世界観は、戦前的マクロから個人の生命を取り戻した。
その倫理は正しかった。
しかし、自己引き受けの射程はミクロ内に留まりやすかった。
ガンダム的世界観――役割による接続と、資質へ回収される主体性
1970年代後半から80年代、日本人は再び組織の中に自らの場所を見出していく。
会社。産業。戦後復興の成果。技術と競争。
個人は、再びマクロと接続される。
ただし、戦前のような無条件の統合ではない。
より現代的な形をとった、組織と個人の関係として。
この時代を象徴するアニメが、『機動戦士ガンダム』である。
ガンダムは、戦争というマクロを避けて通れない現実として描いた。
アムロは嫌がる。逃げる。拗ねる。納得しない。
戦うことを当然視しない。大義への無批判な所属もしない。
ガンダムにおける社会接続方式は、役割である。
アムロは、国家や共同体に自然所属しているわけではない。
しかし、ガンダムに乗る。戦う。成果を出す。仲間を守る。必要とされる。
この「役割を果たすことで居場所ができる」という回路を通じて、アムロは社会へ接続されていく。
この設計の中で、主体性はどう理解されるか。
アムロの主体性は、単なる内側の発火ではない。
最初から「自分がやる」と燃えている熱血主人公ではない。
彼の主体性は、環境との摩擦の中で形成される。
ホワイトベースがある。戦争がある。ガンダムがある。仲間がいる。敵がいる。
成果が返ってくる。評価が返ってくる。失敗が返ってくる。
その反応の中で、アムロは主体になっていく。
つまり、ガンダムにも環境応答としての主体性の萌芽はある。
アムロは、内側から突然主体になるのではない。
ホワイトベース、ガンダム、仲間、敵、成果、失敗という環境から返ってくる反応の中で、少しずつ戦える自分を引き受けていく。
嫌だったことも、苦しかったことも、失ったものも、ホワイトベース隊での日々も、少しずつ自分の物語の外部ではないものになっていく。
この設計の中で、アムロの自己引き受けは成立している。
だが、ひとつ問題がある。
その自己引き受けは、最終的に「アムロだから」という処理へ回収されやすい。
アムロだから乗れる。アムロだから戦える。アムロだから必要とされる。アムロだから成果を出せる。
この読みは、完全には避けられない。
つまり、ガンダム的世界観における自己引き受けは、役割という回路を通じてマクロへ届く。
しかし、その引き受けは、本人の資質や能力へ回収されやすい。
「能力があったから引き受けられた」という読みが可能な限り、自己引き受けは普遍化されない。
それは、アムロという特殊な個人の物語として完結してしまう。
ガンダムは、社会へ接続する回路を描いた。
そして、主体性が摩擦の中で形成されることも描いた。
しかし、その主体性はなお、能力ある個人の物語として回収されやすかった。
エヴァ的世界観――所属回路の崩壊と、宙吊りになる自己引き受け
1991年のバブル崩壊、1995年の震災とオウム事件を経て、日本社会は大きな転換点を迎えた。
成長の物語は崩れた。
組織は個人を守る場所ではなくなった。
役割を果たせば居場所ができるという回路が、もはや機能しなくなった。
この接続不全を記録した作品が、『新世紀エヴァンゲリオン』である。
エヴァの設計は、一見するとガンダムに似ている。
シンジもまた、エヴァに乗れば必要とされる。
役に立てば褒められる。
世界を守れば、社会的には肯定される。
構造だけ見れば、アムロと変わらない。
エヴァでの社会接続方式は、役割の残骸である。
役割は残っている。任務もある。必要とされてもいる。
しかし、その役割が、もはや所属回路として機能しない。
シンジにとって、役割を引き受けることが、自己引き受けへつながらない。
「エヴァに乗る自分」を引き受けても、それが自分の物語の根にならない。
「必要とされる自分」が確認できても、それが自己始発の起点にならない。
アムロにとって、ガンダムに乗ることは苦しいながらも、社会的に肯定される行為だった。
その肯定が、自己引き受けの足場になっていた。
しかしシンジにとって、エヴァに乗ることは苦しいのに、その苦しさが自己引き受けへ転換しない。
役割はある。任務もある。必要とされてもいる。
しかし、それが自分の人生に属するものとして根を張らない。
ここで、主体性理解は行き詰まる。
社会的役割を引き受ければ、主体になれる。
必要とされれば、自分を引き受けられる。
成果を出せば、居場所ができる。
その回路が壊れている。
だから問いは内面へ沈む。
受け入れられない自分が悪いのか。
それとも、社会の側が壊れているのか。
なぜ自分はここに所属できないのか。
自己引き受けは宙吊りになる。
しかも、エヴァ的設計には、もうひとつの歪みがある。
自己引き受けできないまま、個人の内面は世界の帰結へ直結してしまう。
シンジの感情が、人類の運命と結びつく。
少年の拒絶が、世界の存亡を左右する。
ミクロとマクロをつなぐ中間的な回路が壊れたまま、個人の内面だけがマクロへ直結している。
これが、エヴァ的世界観における苦しさの構造である。
自己引き受けはできない。
しかし、世界への責任は課される。
この袋小路が、ポストエヴァ的な問いとして、以降の作品に長く残り続けた。
エヴァは、この苦しさを解決した作品ではない。
この苦しさを、症状として記録した作品である。
だからこそ偉大だった。
しかし、その問いは重すぎた。
そして、日本アニメはその後も長く、この問いの残響の中にいた。
ゾンビランドサガ的世界観――所属なき接続と、環境応答としての主体性
『ゾンビランドサガ』は、この袋小路を別の方法で抜け出す。
まず、本作の設計を確認しておきたい。
フランシュシュは、そもそも社会に所属できない。
死んでいる。ゾンビである。社会的には存在しない。
戦前的な共同体への統合もない。
ジブリ的な生活の聖域への退避もできない。
ガンダム的な役割による居場所の獲得もない。
エヴァ的な「所属しようとしてできない苦しみ」とも違う。
彼女たちは、最初から所属回路の外にいる。
ここがゾンビという設定の核心である。
ゾンビランドサガでの社会接続方式は、所属ではない。
接続である。
所属とは、社会の内側に正しく位置づけられることである。
名前がある。役割がある。居場所がある。
人間として扱われる。
しかし、フランシュシュにはそれがない。
それでも、接続はできる。
歌えば、観客は反応する。営業へ行けば、土地の人々と関わる。
泥にまみれれば、その土地の環境が身体に入ってくる。
旗を立てれば、誰かが見る。仲間を連れて帰ろうとすれば、その行為は世界へ届く。
所属できなくても、接続はできる。
ここに、『ゾンビランドサガ』の更新性がある。
本作は、所属できないことを嘆かない。
なぜ所属できないのか。
自分が悪いのか。社会が悪いのか。
そういう問いへ沈まない。
もう所属できない。
そういうものとして始める。
ここに、本作そのものの自己引き受けがある。
『ゾンビランドサガ』は、「なぜ社会に所属できないのか」を問う作品ではない。
所属できないという初期条件を、まず作品全体が引き受けている。
そのうえで、所属ではなく接続によって社会へ関わり直す。
だから本作は、エヴァ的な内省へ沈まない。
受け入れられない自分が悪いのか、社会が悪いのか、という問いを抱え込まない。
もう所属できない。
ならば、どこで歌うか。誰に届くか。どの現場に立つか。
どの反応を引き受け、次に何を返すか。
問いは、そこへ移る。
環境応答としての主体性
ここで重要なのは、主体性が本人の内側から自然に湧いてくるものとして描かれていないことだ。
フランシュシュは、最初から主体的ではない。
むしろ、徹底して受け身である。
自分で蘇ったわけではない。自分でゾンビになることを選んだわけでもない。自分でアイドルを始めたわけでもない。
社会には所属できない。
何もしなければ、ただのゾンビである。
その事実を否認しない。
理念で美化もしない。
「ゾンビでも尊い」と外から意味づけるのでもない。
まず、その通りだと引き受ける。
しかし、そこで終わらない。
この身体で歌った。このステージに立った。誰かに届いてしまった。
仲間と佐賀に関わってしまった。
返ってきたものは、もう自分たちの物語の外部ではない。
だから、次の行為を返す。
ここに、循環が始まる。
主体性は、彼女たちの内面に最初から眠っていたものではない。
社会的役割を引き受ければ自動的に得られる資格でもない。
環境から返ってきた反応を引き受け、次の行為を返す循環の中で、後から立ち上がっていく。
ここが、ゾンサガにおける主体性理解の更新である。
ゾンビという装置が何を可能にするか
ゾンビという設定の最大の意味は、自己引き受けを本人の資質や社会的役割へ還元しにくくする点にある。
アムロの場合、「アムロだから戦えた」という処理が可能だった。
シンジの場合、「シンジだから引き受けられなかった」という処理が可能だった。
どちらも、自己引き受けの成否は、本人の特殊性へ回収されやすい。
しかしフランシュシュの場合、その回収が難しい。
彼女たちは、ゾンビである。
社会的には存在しない。
最初から自分の意志でアイドルを始めたわけでもない。
普通に社会へ所属している者が努力する物語ではない。
才能があるから成功する物語でもない。
夢があったから動いた物語でもない。
所属できない存在が、それでも世界から返ってきた反応を引き受け、次の行為を返す。
その循環が始まること自体が、本作の問いである。
だから彼女たちの自己引き受けは、「この人物だから可能だった」という処理に閉じない。
むしろ、問いはこうなる。
社会に所属できない存在であっても、自己引き受けと自己始発の循環は始まりうるのか。
その答えを、本作はゾンビたちに演じさせる。
現場という設計――マクロをミクロへ変換する場所
ただし、循環が始まるためには、もうひとつの条件が必要である。
世界が、引き受け可能な大きさでなければならない。
ここで、巽幸太郎の役割が見えてくる。
幸太郎は、佐賀の呪いという巨大なマクロを知っている。
しかし、その重さをフランシュシュにそのまま渡さない。
佐賀の呪いをそのまま渡せば、引き受けようがない。
意味を外から与えれば、自己始発できない。
だから幸太郎は、マクロを現場へ変換する。
ライブ。営業。客。仲間。失敗。今日の仕事。
現場とは、抽象的なマクロが手に触れるミクロへ変換された場所である。
世界そのものは大きすぎる。佐賀の呪いも大きすぎる。
地域の衰退も、個人がそのまま背負うには大きすぎる。
しかし、今日の客なら見える。今日のライブなら立てる。
今日の失敗なら引き受けられる。
この大きさまで落ちて初めて、世界から返ってきたものを自分の物語に組み込める。
ここに、エヴァとの決定的な差がある。
エヴァでは、マクロが個人の内面へ直結した。
中間的な回路が壊れたまま、世界の重さが個人へ差し込まれた。
ゾンサガでは、マクロは現場へ変換される。
直結ではなく、変換。
接続の前に、翻訳がある。
その翻訳があるから、フランシュシュは「世界を背負う」ことなく、「今日の現場に立つ」ことができる。
そして、今日の現場から返ってきたものを引き受け、次の行為を返す。
この循環こそが、本作における主体性の立ち上がりである。
各世界観における自己引き受けの射程
ここで一度、整理しておきたい。
戦前的世界観では、自己引き受けは拒否できない所属として成立する。
与えられた役割と条件を引き受けることは、当然の前提とされる。
しかしその引き受けには、拒否する自由がない。
マクロが暴走したとき、個人はそれに抗えない。
ジブリ的世界観では、自己引き受けはミクロ内で豊かに成立する。
目の前の生活、顔の見える相手との関係において、引き受けは深い。
しかし、マクロとの接続は切断される。
自己引き受けの射程は、生活の聖域内に止まる。
ガンダム的世界観では、自己引き受けは役割を経由してマクロへ届く。
苦しいが、所属回路は機能する。
ただし、引き受けは本人の資質や能力へ回収されやすい。
「あの人物だから引き受けられた」という処理が生まれる。
エヴァ的世界観では、自己引き受けが宙吊りになる。
役割はある。
しかし、それが自己にならない。
所属回路は壊れている。
にもかかわらず、個人の内面はマクロへ直結してしまう。
引き受けられないまま、責任だけが課される。
ゾンビランドサガ的世界観では、自己引き受けが所属なしに始まる。
所属回路を経由しない。
本人の資質へも回収されない。
初期条件を引き受けることから始まり、現場での応答の循環の中で、後から立ち上がる。
この変遷の中に置いたとき、ゾンサガの更新性がはっきりする。
それは、社会接続方式の更新である。
所属ではなく、現場を通じた接続へ。
同時に、主体性理解の更新でもある。
内側の資質でも、社会的役割でもなく、環境応答の循環へ。
この二つが、同時に起きている。
劇場版――足元からの接続が世界へ届く
この構造は、劇場版でさらに鮮明になる。
脅威のスケールは宇宙まで広がる。
普通なら「世界の危機」へ向かう。
しかしフランシュシュは、そこでもブレない。
彼女たちが見るのは、まず山田たえである。
たえを宇宙船へ送り込む。必ず連れて帰る。
世界を救うために仲間を助けるのではない。
仲間との接続を切らない行為が、結果として世界規模の出来事へ届く。
世界と戦う手段は、遠くにあるのではない。
有明海の泥。バルーンフェスタの気球。伊万里湾大花火。
ずっと接続し続けてきた足元の環境の中にある。
佐賀に関与し続けたこと。現場を積み重ねてきたこと。仲間を連れて帰ろうとしたこと。
その接続の履歴そのものが、力へと変わる。
宇宙というマクロを持ち出しながら、動機も手段も徹底してローカルである。
これは笑える。
だが、笑えるほど正しい。
人間が世界と接続するとは、本来こういうことだからである。
世界を背負うことではない。
自分が関与できる場所に立つこと。返ってきたものを引き受けること。次の行為を返すこと。
その循環が、世界へ届くこと。
『ゾンビランドサガ』は、それを馬鹿馬鹿しいほど具体的に描いている。
結論:佐賀の泥の上で、三十年の問いは解かれた
日本アニメの世界観は、個人と社会のマクロ・ミクロ接続をめぐって、何度も問い直されてきた。
戦前は、マクロが個人を統合した。
ジブリは、ミクロをマクロから守った。
ガンダムは、役割を通じて個人をマクロへ接続した。
エヴァは、その接続回路が壊れた地点を記録した。
そして『ゾンビランドサガ』は、その先を描いた。
所属回路がなくても、自己引き受けは始まりうる。
本人の資質へ還元されなくても、自己始発は起きうる。
世界を背負わなくても、世界と接続できる。
その接続の方法が、現場である。
マクロを、手に触れるミクロへ変換すること。
その現場で返ってきた反応を引き受け、次の行為を返すこと。
その循環の中で、主体性が後から立ち上がること。
そして、その循環の集積が、やがて社会を形作ること。
これが、『ゾンビランドサガ』の示した更新である。
世界は、どこか遠くにある抽象的な外部ではない。
自分たちの行為の集積として、そこにある。
だから、佐賀を救うことは、小さなことではない。
ここで重要なのは、自己引き受けの射程を無限に広げなくてよい、ということである。
抽象的な世界全体を引き受けようとすれば、個人は壊れる。
かといって、顔の見える範囲だけに引き受けを閉じれば、社会そのものは遠ざかっていく。
『ゾンビランドサガ』が示したのは、その中間にある境界線である。
自己引き受けは、いったん足元の現場で止めていい。
手が届き、反応が返り、失敗しても次の行為を返せる場所。
その大きさで世界を引き受ければいい。
ただし、その現場で返した行為の循環は、そこで終わらない。
社会もまた、抽象的な外部ではない。
無数の現場で返された行為と、その反応の集積である。
だから、現場での応答が積み重なれば、それはやがて社会を形作っていく。
世界を背負わなくても、世界と接続することはできる。
フランシュシュは、世界を背負わなかった。
ただ、佐賀で歌った。泥にまみれた。旗を立てた。空へ上がった。花火を撃った。
返ってきた世界に、次の行為を返した。
その繰り返しが、世界との接続になった。
これは小さな結論ではない。
エヴァ以降、日本アニメは長く、個人と社会の接続不全を抱え続けてきた。
セカイ系は、社会を飛ばして、個人の内面と世界を直結させた。
ギャルゲは、社会から隔離された閉じた関係圏の中で、救済を組み立てた。
日常系は、社会の大きな問いを後景化し、摩擦の少ない生活圏を守った。
なろう系は、社会との摩擦をゲーム化し、都合のよいルールへ置き換えた。
それぞれに意味はあった。それぞれが、その時代に必要な避難所だった。
だが、社会そのものへは戻れていなかった。
その三十年の迷いに対して、『ゾンビランドサガ』は、佐賀の泥の上で答えを出した。
この答えは、別の作品形式では成立しにくい。
ゾンビでなければ、主体性は本人の資質へ回収されてしまう。
アイドルでなければ、他者の視線にさらされる客体性と、そこから行為によって立ち上がる主体性は描けない。
佐賀でなければ、抽象的な世界を、手に触れる現場へ変換することはできない。
この三つが重なったとき、初めて本作は、エヴァ以降の問いを別の場所へ移すことができた。
佐賀を救った彼女たちは、同時に、日本アニメが抱えてきた三十年の迷いを救っている。
『ゾンビランドサガ』は何と言っているのか
世界を背負わなくていい。社会に正しく所属できなくてもいい。立派な夢を持たなくてもいい。
自分の存在に、先に意味を用意しなくてもいい。
ただ、いま自分が立っている現場から逃げずに、返ってきたものを引き受け、次の行為を返せばいい。
歌えるなら歌えばいい。泥にまみれるなら、まみれればいい。旗を立てるしかないなら、旗を立てればいい。
そこに主体性が生まれる。
世界はそのあとについてくる。佐賀はそんなに遠いものじゃない。
だから、まだ動いているなら、終わっていない。まだ返せるものがあるなら、ただのゾンビではない。
まだゾンビじゃないだろう。なら、生き尽くせ。

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