二次元文化論 後編 二次元愛ではないものが、二次元の顔をしている

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後編 二次元愛ではないものが、二次元の顔をしている


後編 二次元愛ではないものが、二次元の顔をしている

後編の問い――人間に対して、それをできるのか

前編では、二次元表現を、高虚構性によって形而上の人間像を形而下へ下ろす営みとして見た。

中編では、そのように立ち上がったキャラクターを、受け手が「この子」として、人間として受け取ってしまう構造を見た。

二次元キャラクターは、自分とは次元が違う。

触れられない。
同じ世界に住めない。
こちらから到達できない。
現実の関係として回収できない。

しかし、受け手はそれを単なる絵や記号としては受け取らない。

「この子」として受け取る。
人間として受け取ってしまう。

ここに、二次元愛の二律背反がある。

  • 次元が違う
  • しかし、人間として受け取ってしまう

この二律背反を抱えることが、二次元愛の核である。

次元差を消せば、二次元は三次元へ引きずり下ろされる。
人間として受け取ることを捨てれば、キャラクターはただの記号になる。

どちらに逃げても、二次元の価値は保てない。

だから、二次元愛には畏れが生じる。

この子をちゃんと受け取れているのか。
この子を自分の欲望で上書きしていないか。
この子を自分の証明物にしていないか。
この子を現実側の不安解消に使っていないか。

そう問う感覚である。

畏れとは、外から押しつけられる規則ではない。
道徳でもない。
マナーでもない。

対象を人間として受け取った結果として、内側に生じる手触りである。

好きだから語れる。
しかし、好きだから使えないことがある。

好きだから残したい。
しかし、好きだから自分の証明物にはできないことがある。

好きだから近づきたい。
しかし、好きだから軽々しく動かせないことがある。

この「手が止まる感じ」が、畏れである。

後編で問うのは、この一点である。

人間に対して、それをできるのか。

人間は弱い。

畏れがあっても、欲望に負けることはある。
本当は雑に扱ってはいけないと思っていても、手を伸ばしてしまうことはある。
本当は勝手に動かしてはいけないと分かっていても、続きを見たくなることはある。

それは弱さである。

ただちに愛の不在とは言えない。

問われるのは、畏れが発生しているかである。

その子を自分の証明物にする。
その子の顔を自分の身分証にする。
その子の沈黙を自分の欲望で破る。
その子を作品世界から切り離して使う。
その子を市場判定にかける。

そこに何の危うさも感じない。

そして、それを二次元愛だと思い込む。

ここに、二次元の顔をした別の欲望がある。

第一部 受け手は、その子を自分のために使っていないか

「この子」ではなく、「この子を好きな自分」を見る

二次元愛が崩れるとき、最初に起きるのは、対象から自分への視線の反転である。

この子が好き。
この作品が好き。
この関係性が好き。
この場面が好き。

そこから始まったはずの感情が、いつの間にか、自己表示へ変わる。

私はこれだけ好きです。
私はこれだけ支えています。
私はこのキャラの人です。
私はこの界隈でこれだけ熱量があります。

推し活は、この反転を起こしやすい。

買った。
通った。
祝った。
支えた。
拡散した。
全部追った。

それは、好きの痕跡ではある。

好きな作品を続かせたい。
好きなキャラクターの展開が続いてほしい。
良いものに金を払いたい。
価値あるものが評価されてほしい。

そこまではまだ、対象へ向かっている。

しかし、それが愛の証明になった瞬間、見ているものは変わる。

この子を見ているのではない。
この子を好きな自分を見ている。

この子を支えたいのではない。
支えている自分を確認したいのである。

痛バッグでは、この反転がさらに露骨になる。

キャラクターの顔が、自分の所属や熱量を示す身分証になる。

キャラクターの顔は、本来、その子を受け取るための形である。

この子はこういう目をしている。
こういう表情をする。
こういう空気を持っている。
こういう存在として立っている。

顔は、人間像の一部である。

だが、大量に並べられ、所有量として陳列された顔は、人間像の一部ではなくなる。

所有の記号。
所属の記号。
熱量の記号。
村での身分証。

その子の顔を見ているのではない。
その顔を使って、自分の位置を見ている。

人間に対して、それをするだろうか。

大事な人の顔を、自分の身分証にするだろうか。
自分が誰かを大事に思っていることを証明するために、その人の存在を使うだろうか。

そこで手が止まる。

その手が止まる感覚が畏れである。

この子を好きな自分を見ているかぎり、その子は人間として扱われていない。

それは二次元愛とは呼べない。

作品の外で、その子を動かす

二次創作は難しい。

それは、作品の外でキャラクターを動かす行為だからである。

その子が言っていない言葉を言わせる。
選ばなかった未来を選ばせる。
描かれなかった関係を成立させる。
閉じていた沈黙に、こちらの言葉を入れる。

ここには、必ず危うさがある。

二次元キャラクターは、作品の中で立っている。

その声。
その表情。
その沈黙。
その関係性。
その選ばなかったもの。

それらを含めて、「この子」として受け取られている。

二次創作は、その外側から手を伸ばす。

問われるのは、上手いか下手かだけではない。
解釈が正しいか間違っているかだけでもない。

その子を動かすときに、畏れがあるか。

人間に対して、それをするだろうか。

その人が言っていない言葉を、自分の欲望で言わせる。
その人が選ばなかった未来を、自分の都合で選ばせる。
その人の沈黙を、自分の物語のために破る。

そこに何も感じないなら、その人を人間として扱っていない。

二次創作は、作品の外で「この子」を動かす行為である。

だからこそ、畏れが必要になる。

畏れが失われたとき、その子はキャラクターではなく、自分の欲望を通すための器になる。

その行為は、二次元愛とは呼べない。

第二部 作り手は、その子を市場や企画に明け渡していないか

作品を見ることから、市場を見ることへ

ここからは、作り手側、あるいは運用側の問題である。

本来、創作者は作品を見る。
受け手も作品を見る。

創作者は、受け手を直接見てキャラクターを作るのではない。
受け手も、創作者や市場の反応を見てキャラクターを愛するのではない。

両者は作品を見る。

作品の中に立ち上がった「この子」を、それぞれの位置から見る。

作品そのものも、単なる固定物ではない。

芯はある。
しかし、見るたびに揺れもある。
受け手によって見え方も変わる。
時代によっても受け取り方は変わる。

だが、何でもありではない。

作品には芯がある。
その芯があるから、創作者も作品を見る。
受け手も作品を見る。

この構造が崩れると、二次元表現は市場へ落ちる。

創作者が作品ではなく市場を見る。
受け手が作品ではなく運営の反応を見る。
作品が、市場や反応に従属する。

そのとき、作品は形而上の人間像を下ろす場ではなくなる。

形而下の泥の中に落ちる。

コラボ――その子を作品世界から切り離していないか

コラボは、作り手側・運用側のキャラクター倫理が問われる場である。

作品は終わる。
供給は止まる。
キャラクターの新しい場面は減っていく。
人々の記憶から薄れていく。

もう一度見たい。
忘れられないでほしい。

そういう欲望はある。

コラボが、作品へ戻る導線になることもある。

その場合、キャラクターは作品へ帰る。

しかし、コラボはすぐに雑な召喚になる。

話題になるから。
数字が取れるから。
ファンが喜びそうだから。
キャラを出せば売れるから。
IPを使えるから。

そういう理由で、キャラクターが別文脈へ連れ出される。

そのとき、キャラクターは作品世界から切り離される。

その関係性。
その距離感。
その物語上の位置。
その世界での空気。

そうしたものが薄まり、ただの集客記号になる。

その子を作品へ戻しているのか。
それとも、作品世界から切り離して使っているのか。

この子をもう一度作品へ戻すための呼吸なのか。
それとも、作品から切り離して使うだけの召喚なのか。

人間に対して、それをするだろうか。

大事な人を、文脈から切り離して、話題化や集客のために呼び出すだろうか。
その人の人生や関係性を薄めて、使いやすい記号として扱うだろうか。

人間として受け取った対象なら、文脈を剥がして便利に使うことには畏れが生じる。

そこに畏れがないなら、その子は作品の中で立つ人間像ではなく、企画に呼べば人が集まる記号として扱われている。

不在を不在として抱えられない弱さ。
終わったものを終わったものとして受け取れない弱さ。

そこに耐えられず、雑な召喚で埋めるなら、それは二次元愛とは呼べない。

市場入力型――その子を市場判定にかけていないか

市場入力型キャラクター運用の問題は、キャラクターを市場判定にかけるところにある。

人気が出れば深掘りされる。
反応があれば声がつく。
数字が出れば物語が足される。

裏を返せば、人気が出なければ深掘りされない。
反応が薄ければ声がつかない。
数字が出なければ物語が足されない。

つまり、その子は市場から「かわいくない」と判定される。

ここでいう「かわいい」は、美しさ、信頼、痛ましさ、愛おしさまで含む、人間像への賭けである。

そうした形而上の人間像を、作品の中で賭ける前に、市場の反応へ預けてしまう。

そして創作側も、それを仕方ないものとして受け入れる。

これは単なる人気差ではない。

市場が、その子の人間としての厚みを決めている。

人間に対して、そんなことをするだろうか。

あなたの子供は市場ウケが悪いので、教育費を投入しません。
反応が薄いので、この子の人格形成は打ち切ります。
人気が出なかったので、深掘りしません。

そう言われたら、おかしいと分かる。

二次元表現がキャラクターを「この子」として、人間として受け取らせる営みであるなら、創作側はその子を市場判定に明け渡してよいのか。

創作者の「これかわいいやろ」は、市場に通ったものを後追いすることではない。

市場の反応が返る前に、形而上のかわいいを作品の中へ導入する賭けである。

市場の反応を先に読むほど、「これかわいいやろ」という提案は、「この属性ならウケるだろう」という当てに変わっていく。

そのとき、かわいいは作品へ導入されるものではなく、市場で確認されるものになる。

創作者の視線は、作品ではなく市場へ向く。
受け手の視線も、作品ではなく運営や市場の反応へ向く。

この子に声がつくか。
この子が深掘りされるか。
この子の出番が増えるか。
この子が勝つか。

そうなると、作品は上に置かれない。

作品は、形而上のかわいいを導入する場ではなくなる。
市場に通ったかわいさを後追いする装置になる。

そのとき作品は、形而下の泥の中に落ちる。

人間として受け取らせるはずのキャラクターを、市場にかける。

それは二次元表現の本義から外れている。

そのような運用から生まれるものは、二次元愛とは呼べない。

第三部 そもそも二次元ではないもの

VTuber――総称二次元の絵をかぶったアイドル

VTuberは、ここまで見てきたものとは位相が違う。

推し活、痛バッグ、二次創作、コラボ、市場入力型のキャラクター運用は、いずれも二次元キャラクターをどう扱うかの問題だった。

しかし、VTuberはそもそも本稿でいう二次元キャラクターではない。

VTuberは、二次元の未来ではない。
総称二次元の絵をかぶったアイドルである。

二次元表現は、現実にはそのまま存在しない人間像を、絵、声、台詞、沈黙、関係性、物語上の立ち位置によって立ち上げる営みである。

そこでは、作品の中に「この子」が立ち上がる。

VTuberは逆である。

そこに先にあるのは、現実の人格である。
配信者であり、演者であり、アイドル的本人性である。

総称二次元の絵は、その人格を包む外装として使われる。

アイドルの未来として語るならよい。

だが、それを二次元の未来として語るなら違う。

VTuberは、二次元表現が追求してきたものを継承していない。

形而上の人間像を立ち上げる努力をしていない。
作品、関係性、沈黙、物語の中で「この子」を成立させようとしていない。

そこにあるのは、認知、応答、配信、継続的活動、本人性、距離感、ファンとの関係性である。

それはアイドルである。

二次元の絵をかぶっているだけで、欲望の中心は三次元アイドルと変わらない。

総称二次元の外形をまとっていても、本稿でいう二次元ではない。

結論 二次元愛とは、その子を自分の自由にしないことである

受け手は、その子を自分のために使っていないか。

作り手は、その子を企画や市場に明け渡していないか。

そもそも二次元ではないものを、二次元の未来として語っていないか。

後編で見てきたのは、この三つである。

問いは一つだった。

人間に対して、それをできるのか。

二次元愛とは、次元が違う相手を、それでも人間として受け取ってしまうことである。

二次元愛とは、その子を自分の自由にすることではない。

受け手は、その子を自分の証明物や欲望の素材にしない。
作り手は、その子を企画や市場判定に明け渡さない。
そもそも二次元ではないものを、二次元の未来として語らない。

そこに畏れがある。

二次元表現とは、形而上の人間像を形而下へ下ろす営みである。

ならば、受け手もまた、形而下に置かれたキャラクターから、形而上の人間像を受け取ろうとしなければならない。

これは理想論である。

しかし、理想論で当然である。

二次元を愛するとは、次元差を消すことではない。

現実にはいないものを、ただの記号に落とさず受け取ること。
現実には回収できない相手を、それでも「この子」として扱うこと。
読み切れず、証明できず、届かないものを、それでも人間として受け取ること。

そして、その子を自分のために使わないこと。

二次元を好きであるということは、たぶん、そこにしかないのだと思う。


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