序 ここで切るのは、資本主義ではなく資本主義的世界観である
前稿では、社会がすでに転がり始めていることを見た。人間は、かつてのようには踊らなくなった。労働、消費、結婚、出産、住宅、会社、国家、未来期待。これらを一つの人生パッケージとして受け取り、そこへ自然に熱量を差し出す人間は減っている。
それは、人間が突然劣化したからではない。若者が弱くなったからでもない。単に価値観が多様化したからでもない。かつての「普通」は、そもそも普通ではなかった。
化石燃料、人口増、家制度、性別役割、終身雇用、安い住宅、会社共同体、環境負荷の外部化、未来期待。そうしたドーピング込みで、人間は踊っていた。薬が効いていた時代の記録を、薬が切れた社会に要求している。それが、現代の多くの混乱である。
前稿を一言でいえば、こうだった。
なんか、玉が転がり始めていないか。
誰かが押したわけではない。誰かが旗を振ったわけでもない。思想家が導いたわけでもない。古いくぼみが浅くなり、人間がそこに留まらなくなった。会社、家族、結婚、住宅、労働、消費、成長期待という旧来のくぼみが、以前ほど人間を留められなくなった。そして社会は、とりあえず別の配管を探し始めている。
本稿では、その前に一度、資本主義的世界観を切っておきたい。
ここで切るのは、資本主義そのものではない。市場を否定するわけではない。企業を否定するわけでもない。利益を否定するわけでもない。切りたいのは、人間を労働市場に接続された存在としてしか見ない世界観である。
その世界観では、人間はまず労働者である。働いて所得を得る人間が標準であり、働いていない人間は例外である。年金生活者、専業主婦、子ども、高齢者、病人、失業者、福祉受給者は、どこか「支えられる側」として扱われる。そして、給付や年金やBIは「労働市場からこぼれた人間への補助」として見られる。
この見方を切る。
なぜなら、人間社会はそもそも、労働市場だけで回ってきたわけではないからである。
第一章 人間は労働者ではない
資本主義的世界観において、人間はまず労働者である。働き、所得を得て、消費し、納税し、老後に備える。働いている人間が本流であり、働いていない人間は例外である。
この前提があるから、BI的な生活保障の話をすると、すぐにこう言われる。
そんなことをすれば、人間は働かなくなる。
この言葉は、非常に資本主義的である。人間は不安定にしておかないと働かない。生活の底を厚くすると労働供給が減る。だから、ある程度の不安や欠乏は必要である。そういう人間観が、そこにある。
しかし、そもそも人間社会は、本当にそうやって回ってきたのか。全員が個人として裸で労働市場に立ち、自分一人の市場価値だけで生活を成り立たせていたのか。
そんなことはない。
子どもは働かない。高齢者も働かない時期がある。病人も働けない。妊娠・出産・育児・介護の時期には、労働市場への接続は弱まる。専業主婦は市場労働ではなく、家庭内の再生産労働を担っていた。家族の中では、稼ぐ人と稼がない人が同じ生活単位にいた。
地域共同体は、金銭ではない互助を持っていた。会社は、かつて社員の生活や身分の一部を抱えていた。持ち家は、住宅費を低く抑える生活基盤だった。年金は、老後の労働外配管だった。
人間社会は、もともと労働市場だけで回っていない。むしろ、人間社会は長いあいだ、労働市場の外側にある多くの配管によって回ってきた。
家族内扶養。村落共同体。家制度。夫の賃金による家庭内分配。専業主婦。子どもの扶養。高齢者の扶養。持ち家。土地。地域の助け合い。会社の福利厚生。終身雇用。年金。退職金。
これらはすべて、広い意味では生活配管である。
つまり、人間社会はもともとかなりBI的に回っていた。
ここでいうBIは、一律現金給付だけを指さない
もちろん、ここでいうBIは、国家が一律現金給付をする制度のことではない。もっと広い意味での、労働市場の外側にある生活保障の配管のことである。
誰かが稼ぎ、誰かが育て、誰かが家を守り、誰かが老人を見る。誰かがまだ子どもで、誰かが病んで休み、誰かが地域を回す。そういう形で、人間社会は回ってきた。
個人単位ではなく、家族単位、地域単位、会社単位、国家単位で配管されていたのである。
だから、BI的接続を「人類未経験の危険思想」のように語るのはおかしい。むしろ特殊だったのは、近代資本主義の方である。
近代資本主義は、人間をできるだけ個人単位に切り分け、労働市場へ接続しようとした。家族が担っていたケア、地域が担っていた互助、会社が担っていた生活保障、家が担っていた扶養、土地が担っていた生活地盤を、次々と解体し、個人を市場に立たせた。
それは自由を生んだ。家に縛られない。村に縛られない。親の職業を継がなくてよい。結婚しなくてもよい。会社に一生を捧げなくてもよい。この切断には、確かに解放の側面があった。
しかし、切断は同時に配管を切ることでもあった。
家から自由になれば、家が担っていた扶養やケアも失われる。地域から自由になれば、地域が担っていた互助も失われる。会社から自由になれば、会社が担っていた生活保障も失われる。家族から自由になれば、家族内で流れていた生活資源も見えにくくなる。
資本主義は、自由を増やした。しかしその過程で、生活を支える配管も切った。
ここを見ないまま「働かない人間は例外である」と言ってしまうと、社会の実態を見誤る。
人間は、労働者である前に、生活する存在である。
第二章 BIで働かなくなる仕事は、何で維持されていたのか
BI的接続への典型的な批判に、こういうものがある。
そんなものを与えたら、人間は働かなくなる。
この批判は、半分正しい。生活の底が厚くなれば、働かなくなる人は出るだろう。少なくとも、生活不安だけで維持されていた仕事からは降りる人が出る。
しかし、それは本当に問題なのか。
ここで問うべきなのは、BIによって人間が怠けるかどうかではない。BIで人が辞めるような仕事は、そもそも何によって維持されていたのかである。
その仕事は、社会的に必要だから維持されていたのか。本人が納得していたから維持されていたのか。それとも、貧困と不安を人質にして維持されていただけなのか。
もし、生活の底があるだけで誰もやらなくなる仕事なら、その仕事は社会に対して問いを突きつける。本当に必要なら、賃金や条件を上げるべきではないか。不要なら、消えてよいのではないか。自動化できるなら、自動化すればよいのではないか。
つまり、BI的接続は労働を破壊するのではない。労働の本当の価格を露出させる。
これはかなり大きな転換である。
資本主義的労働観は、人間を不安で労働市場へ縛りつけてきた。食えないから働く。家賃があるから働く。社会保険があるから働く。履歴書に穴を空けられないから働く。世間体があるから働く。
もちろん、これらは現実である。人間は食べなければならない。生活費は必要だ。金は必要だ。
しかし、生存不安を労働供給の燃料にする社会は、まともなのか。
「BIを配ったら人が働かなくなる」という批判は、裏返せば、こう言っているに等しい。
人間は不安定にしておかないと働かない。底を抜いておかないと、労働市場に出てこない。
これは、人間観としてかなり貧しい。
人間は、金のためだけに動くわけではない。面白いから動く。納得したいから動く。承認が欲しいから動く。役に立ちたいから動く。暇に耐えられないから動く。自分の能力を試したいから動く。一円にもならないのに、妙に熱心に議論し、考え、作り、遊び、調べ、記録する。
人間は、完全な怠け者ではない。ただし、無意味な苦痛に耐え続けるほど高尚でもない。
だから、BI的接続が厚くなって消える仕事があるなら、それは社会にとって悪いこととは限らない。むしろ、その仕事がどれだけ生活不安に寄りかかっていたかが露出する。
本当に必要な仕事なら、ちゃんと返す必要がある。
金。時間。裁量。尊厳。感謝。面白さ。手応え。
人間に「働け」と言うなら、働いたあとに何かが返らなければならない。返さずに働かせるには、不安を使うしかない。その不安を正当化してきたのが、資本主義的世界観だった。
第三章 日本はすでに準BI社会である
日本政府は、いまだに資本主義的な言葉を使う。
一億総活躍。生涯現役。女性活躍。人的資本。リスキリング。労働参加。成長と分配。
しかし、日本社会の実態は、すでにかなり労働中心社会からズレている。
年金で生きている人が大量にいる。高齢者は年金を受け取りながら、必要に応じて少し働く。主婦は夫の賃金や家計の上に乗りながら、パートタイムで働く。扶養内労働がある。持ち家があることで、低収入でも生活が成り立つ人がいる。親の援助や実家が、生活の底になる人がいる。
医療、介護、児童手当、各種給付が、生活を支える。正社員であっても、出世を望まず、管理職を避け、会社への接続を低温に保つ人が増えている。
これは、全員フルタイム労働者社会ではない。
むしろ、年金BI、家庭内BI、持ち家BI、家族内移転、扶養内労働、低温パート労働が混ざった社会である。
そして日本社会は、それで崩壊していない。
もちろん問題は山ほどある。少子化もある。賃金停滞もある。財政不安もある。介護負担もある。地域衰退もある。それでも、国内社会はかなり安定している。治安も保たれ、生活インフラも回り、人々は低温ながら生活している。
これは重要な観察である。
日本は、理念上はまだ労働社会のままである。しかし実態としては、すでに労働外配管と低温労働でかなり回っている。
政府はそれを「活躍」と呼ぶ。しかし現場の温度は、たぶんもっと低い。
めんどくさい。でも少し足りない。しゃあねえな、このくらい働くか。
この温度である。
つまり、日本人は働いてはいる。しかし、踊ってはいない。
主婦パートは「完全な市場労働者化」ではない
主婦パートを見ても、そのことが分かる。専業主婦からパートタイムになったことを、単に「女性の労働参加」と見ると見誤る。
もちろん統計上は労働参加である。しかし生活構造としては、夫の賃金、家計、扶養、持ち家、家族内配管の上に乗った、部分的な市場接続である場合が多い。これは、家庭内BIの上に乗った補助労働に近い。
昔の専業主婦モデルは、多くの問題を抱えていた。家父長制、経済的従属、離婚リスク、無償労働の不可視化。そこは美化できない。
しかし機能としては、家庭内に、市場外で生活を支える人間がいた。夫の賃金が家計へ入り、妻や子に分配される。これは広義には家庭内BIだった。
その家庭内BIが弱る。夫一人の賃金で家族全体を支えにくくなる。すると妻がパートへ出る。これは完全な市場労働者化ではない。家庭内BIの不足分を、低温労働で補っているのである。
高齢者労働も同じだ。年金を受けながら少し働く。これは「生涯現役」というほど熱いものではない。むしろ、年金BIの上に乗った、しゃあねえな労働である。
この現実を見ると、「BIを入れたら人が働かなくなる」という批判はかなり雑である。
日本ではすでに、多くの人が、年金や家庭内配管や持ち家や家族内移転の上で、必要な範囲だけ働いている。そして社会は、それで回っている。
つまり、日本はすでに、準BI社会であり、準ポストフルタイム労働社会である。
ただし、それを説明する言葉がまだ古い。
第四章 資本主義は配管を切って効率化した
資本主義は、長いあいだ、配管を切ることを効率化と呼んできた。
会社が人を育てる。家族が再生産を担う。地域が生活を支える。専業主婦や家族内扶養が市場外ケアを担う。終身雇用が人生設計を支える。持ち家や土地が生活地盤になる。国家が年金や医療で支える。こういう配管が、雑だけれど、人間社会を回していた。
しかし資本主義は、それをコストとして見始めた。
社員教育は外へ。再生産は家庭へ。介護は家族へ。住宅リスクは個人へ。老後不安は自己責任へ。地域維持は自治体へ。環境負荷は自然へ。将来不安は若者へ。生活の底は各自で何とかしろ。
そうして企業は言った。
効率化しました。利益率が改善しました。株主価値が上がりました。
しかし、実際には配管を切って外へ漏らしただけではなかったか。
企業は生活維持コストを外部化した。労働者の再生産コストを家庭へ投げた。教育コストを社会へ投げた。住宅リスクを個人へ投げた。環境負荷を自然へ投げた。地域維持を自治体へ投げた。未来不安を若者へ投げた。
それを効率化と呼んだ。
しかし、配管を切れば、いずれ水は来なくなる。
人間が働かない。産まない。買わない。会社に忠誠を出さない。長期ローンを組まない。管理職になりたがらない。社会を信用しない。
すると今度は、資本側が焦り始める。
低所得者から税を取るな。政府が生活を支えろ。家計に余裕を持たせろ。消費者を維持しろ。労働者を維持しろ。
これは、かなり皮肉である。
自分たちで配管を切っておいて、あとから政府に「水が来ないぞ」と文句を言っている。
資本主義は、自分の入力源を自分で削った
資本主義は、労働者を必要とする。しかし労働者をコストとして削る。
資本主義は、消費者を必要とする。しかし購買力を削る。
資本主義は、次世代を必要とする。しかし再生産費用を払わない。
資本主義は、社会の信用を必要とする。しかし信用を支える配管を切る。
その結果、自分の入力源を自分で削る。
経済民主化とは、この後始末の一つである。
資本主義を壊すことではない。資本主義に、切った配管をとりあえずつなぎ直させることである。
ただし、昔の配管には戻れない。
家制度には戻れない。専業主婦モデルにも戻れない。終身雇用にも戻れない。地域共同体にも戻れない。土地上昇神話にも戻れない。会社が人生を抱える時代にも戻れない。
だから、新しい配管が必要になる。
年金、手当、NISA、GPIF、従業員持株、公的持分、企業配当の社会化。
形は違うが、どれも切られた配管を、別の形でつなぎ直そうとする動きとして読める。それらは完成形ではない。美しい設計図から生まれた制度でもない。
ただ、切れた場所をとりあえず塞いでいるうちに、生えてきた配管である。
第五章 経済民主化とは、儲けへの接続である
ここで、単なるBI論や福祉論とは違う地点に来る。
経済民主化は、ただの再分配ではない。「困っているから配る」だけではない。「かわいそうだから配る」でもない。「人間として最低限必要だから配る」だけでもない。
もちろん、その側面はある。生活の底は必要である。困窮者支援は必要である。
しかし、経済民主化の本質は、もっと別のところにある。
儲けへの接続を広げること。
これである。
儲けていないのにもらえるのは、どこか人工分配に見える。官僚や国家が「必要だから」「平等だから」「かわいそうだから」と配る。すると、分配が市場の成果から切れる。そこに不信が生まれる。
しかし逆に、社会全体で儲けを作っているのに、受け取れないのもおかしい。
企業利益は、経営者と株主だけで作っているわけではない。労働者がいる。消費者がいる。教育制度がある。道路がある。通貨がある。治安がある。法制度がある。地域がある。自然環境がある。国家インフラがある。
それらがなければ、企業利益は成立しない。にもかかわらず、資本所有者だけが果実を受け取るなら、それは配管が狭すぎる。
だから、経済民主化の肝はこうなる。
儲けに接続しているなら、儲けの一部が返る。
市場は残す。企業も残す。利益も残す。価格も残す。競争も残す。ただし、儲けの受け取り口を一部資本所有者だけに閉じない。
市場に稼がせる。しかし、取り分の出口を狭くしない。
これが経済民主化である。
政治民主化と経済民主化
政治で言えば、民主化は政府と国民の運命を接続することだった。
王政では、国民が飢えていても、王宮だけは豪華であり得た。税は取る。戦争もする。しかし責任は取らない。
近代民主主義は、少なくとも建前として、政府と国民の運命を切り離せなくした。国民が苦しめば、政府は責められる。政府の失敗は、選挙や世論で返ってくる。国民の生活が豊かになれば、政府の正統性も増す。
政治民主化とは、政府と国民の接続である。
ならば、経済でも同じことが起きる。
企業が儲かっている。株主は儲かっている。経営者報酬も上がる。しかし労働者や国民には返らない。生活は苦しい。再生産もできない。消費も伸びない。
これは、政治で言えば、王宮だけが豊かで民衆が痩せている状態に近い。
もちろん、企業努力はある。創業者のリスクもある。経営の巧拙もある。そこを消してはいけない。
しかし、企業が社会の上に立って儲けている以上、その利益を完全な私物として閉じることもできない。
政治で言えば、代表なくして課税なしだった。
経済で言えば、こうなる。
接続なくして利益独占なし。
社会の労働、消費、教育、道路、通貨、治安、法制度、自然、地域、国家インフラに乗って儲けているなら、その儲けは社会と無関係ではない。
経済民主化とは、企業・資本・国民の運命を切り離せなくすることである。
企業が儲かれば、国民にも何らかの形で返る。国民が苦しめば、企業も市場を失う。企業不祥事は、国民全体への裏切りに近づく。国民の生活地盤が痩せれば、企業の入力源も痩せる。
この同期である。
ここで見ているのは、完成制度ではなく地形である
ここで当然、こういう問いが出る。
では、それを誰が強制するのか。どの制度で実現するのか。具体的な仕組みは何なのか。
もっともな問いである。しかし、本稿の関心はそこではない。
ここで見ているのは、完成した制度案ではなく、社会がどのくぼみに落ちやすくなっているかという地形である。
人間を労働市場だけで支える旧配管が弱る。家族や会社共同体による私的配管も弱る。しかし、人間を完全に切断すると社会は回らない。企業も労働者と消費者を失えば回らない。国家も人間を接続しなければ安定しない。
そうなると、社会はとりあえず別の配管を探し始める。
制度は、しばしば後から生えてくる。先に完璧な設計図があるのではない。
配管が切れる。不具合が出る。不満が溜まる。とりあえず穴を塞ぐ。その場しのぎの制度ができる。意外と回る。別の制度とつながる。気づいたら、それが新しいくぼみの輪郭になっている。
年金も、NISAも、GPIFも、手当も、従業員持株も、公的持分のような発想も、おそらくそのように読める。
それらは最初から美しい思想として設計されたのではない。切れた配管を、とりあえずつないでいるうちに生えてきた制度である。
だから本稿は、「こうしろ」と命じる論ではない。「こういう制度を作ればよい」と設計する論でもない。
ここで見ているのは、資本主義的世界観では見えなくなっていた配管が、どの方向へ生え直そうとしているのかである。
第2編では、ここまでを確認した。
人間社会はもともとBI的に回っていた。資本主義はその配管を切り、効率化したように見せた。しかし切った配管の先にいたのは、人間そのものだった。
だから今、社会はとりあえず配管をつなぎ直し始めている。
第1編は、社会がすでに転がり始めていることを見た。本稿は、その転がりを資本主義的世界観で読み違えないために、人間社会がもともとBI的配管で回っていたことを確認した。
次に見るべきは、その再配管が進んだ先に見えてくる、経済民主化後のくぼみである。

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