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前編 二次元表現とは何をしているのか
中編 二次元キャラクターを愛するとはどういうことか
後編 二次元愛ではないものが、二次元の顔をしている
中編 二次元キャラクターを愛するとはどういうことか
前編からの接続――形而上の人間像を、人間として受け取ってしまう
前編では、二次元表現の本質的価値を確認した。
二次元表現は、現実の人間を再現するものではない。
三次元の現実にいる人間へ漸近するものでもない。
二次元表現は、高虚構性によって、形而上の人間像を形而下へ下ろす営みである。
創作者は、理性と直感の重なる領域にある、人間として最も強く受け取られるはずだという像を、絵、声、台詞、沈黙、関係性、距離感、物語上の立ち位置として形にする。
そして受け手に向けて、
このキャラかわいいやろ。
この子、よくないか。
この関係性、信じられるやろ。
この沈黙、分かるやろ。
と差し出す。
それは単なる趣味の提示ではない。
形而上の人間像を、形而下の表現として成立させる創作上の賭けである。
中編で考えたいのは、その先である。
では、そのように立ち上がったキャラクターを、受け手はどう受け取るのか。
二次元キャラクターは、三次元の現実にはいない。
触れられない。
同じ世界に住めない。
こちらに返事をしない。
現実の制度の中にもいない。
肉体も、戸籍も、生活もない。
自分とは次元が違う。
しかし、受け手はそれを単なる絵や記号としては受け取らない。
「この子」として受け取る。
人間として受け取ってしまう。
ここに、二次元キャラクターを愛することの根本的なねじれがある。
愛はそもそも形而上的である
まず確認しておきたいのは、愛というものは、そもそも形而上的なものだということだ。
現実の人間を愛する場合でさえ、相手を完全に理解しているわけではない。
恋人でも、夫婦でも、親友でも、家族でも、相手の内面を百パーセント受け取ることはできない。
相手を完全に所有することもできない。
相手のすべてを分かることもできない。
それでも、愛は成り立つ。
なぜなら、愛とはそもそも、完全に把握できる対象を所有することではないからである。
相手は、自分の外にいる。
相手には、自分には届かない内面がある。
相手は、自分の都合では動かない。
相手は、自分の理解を超えて存在している。
それでもなお、その相手を大事に思う。
そこに愛がある。
つまり、愛は最初から、届ききらないものを含んでいる。
相手を完全に形而下へ回収できないという前提を含んでいる。
現実の愛にも、形而上性はある。
ただし、現実の愛には補助線がある。
言葉が返ってくる。
表情が返ってくる。
触れられる。
同じ時間を過ごせる。
関係に名前がつく。
制度がある。
相手から承認されることもある。
逆に、拒絶されることもある。
これらは、愛の形而上性を消すものではない。
相手の内面を完全に所有できるようになるわけではない。
相手の存在を完全に理解できるようになるわけでもない。
しかし、それでも現実の応答は、愛を部分的に支えてくれる。
言葉がある。
身体がある。
生活がある。
時間がある。
制度がある。
関係性の更新がある。
それらが、愛の不確かさを支える補助線になる。
二次元への愛には、現実の補助線がない
二次元への愛には、その補助線がない。
こちらから好きだと思っても、相手は返事をしない。
触れられない。
同じ世界に住めない。
制度にもならない。
好きであることは、相手から承認されない。
拒絶すらされない。
こちらの愛は、どこにも確定されない。
現実の愛なら、たとえうまくいかなくても、何らかの応答がある。
受け入れられることもある。
拒まれることもある。
関係が進むこともある。
壊れることもある。
現実は、ときに残酷である。
しかし、応答があるからこそ、関係は何らかの形で確定する。
二次元には、それがない。
好きである。
しかし届かない。
大事である。
しかし証明できない。
人間として受け取っている。
しかし現実にはいない。
だから、二次元への愛では、愛がもともと持っている形而上性が剥き出しになる。
二次元だから愛が形而上になるのではない。
愛はそもそも形而上的である。
ただ、現実の愛では、身体や応答や制度がその形而上性を部分的に支えている。
二次元への愛では、その補助線が使えない。
だから、逃げ場がない。
この逃げ場のなさが、二次元キャラクターを愛する受け手の中に、強い不安を生む。
二律背反を抱えなければ、二次元の価値は保てない
ここで、二次元キャラクターへの愛が抱える二律背反が見えてくる。
次元が違う。
しかし、人間として受け取ってしまう。
この二つは、どちらか片方だけでは成り立たない。
まず、次元が違うことを捨てると、二次元は二次元ではなくなる。
返事がほしい。
認知されたい。
触れたい。
現実の人格として関係を結びたい。
自分の行為に反応してほしい。
そうして次元差を消そうとすると、二次元は三次元へ引きずり下ろされる。
それは、本人性、応答性、承認、所有、現実関係の領域である。
そこでは、キャラクターはもはや次元の違う場所にいる対象ではない。
こちら側と関係を結ぶ、現実の相手になる。
それは別のものである。
一方で、人間として受け取ることを捨てても、二次元の価値は失われる。
どうせ絵でしょ。
どうせ架空でしょ。
どうせ商品でしょ。
どうせ属性でしょ。
どうせ顔と声と設定の組み合わせでしょ。
こう考えれば、確かに扱いは楽になる。
だが、その瞬間、前編で見た形而上の人間像は消える。
そこに残るのは、顔、属性、記号、商品、所有物、活動の旗、村の身分証、市場資源、素材である。
「この子」はいなくなる。
二次元表現が立ち上げたはずの人間像が、使いやすい記号へ落ちる。
だから、二次元の価値を保つには、この二律背反を解消してはいけない。
次元が違うことを忘れてはいけない。
しかし、人間として受け取ることもやめてはいけない。
届かない。
けれど、ただの記号ではない。
現実にはいない。
けれど、人間として受け取ってしまう。
この矛盾を抱え続けることが、二次元キャラクターを愛するということの出発点である。
しかも、この二律背反を抱えること自体が、人間にとって苦しい。
好きなら近づきたい。
好きなら返事がほしい。
好きなら確かめたい。
好きなら形にしたい。
それは自然な欲望である。
しかし、二次元の価値を保つには、その欲望をそのまま満たしてはいけない。
届かなさを消せば、二次元ではなくなる。
記号として扱えば、人間像が失われる。
つまり、二次元を愛することは、届きたいという欲望を抱えながら、届かなさを消さないことでもある。
ここに、二次元への愛の難しさがある。
二次元への愛は、この矛盾を解決することではない。
矛盾のまま引き受けることで深まる。
届かないものを、届かないまま大事にする。
現実にはいないものを、ただの記号に落とさず受け取る。
この苦しさを抱えるところに、二次元への愛の核がある。
誤読の恐怖――この子をちゃんと受け取れているのか
二律背反を抱えた受け手には、まず誤読の恐怖が生じる。
二次元キャラクターは返事をしない。
こちらがどう受け取ったかを、本人が訂正してくれない。
現実の人間なら、応答がある。
それは違う。
そういうつもりじゃない。
私はそう思っていない。
そう見えていたなら、少し違う。
そう言われることもある。
もちろん、現実の人間であっても完全には分からない。
誤解もある。
すれ違いもある。
相手の内面を百パーセント理解することはできない。
それでも、現実には応答がある。
関係の更新がある。
訂正の可能性がある。
二次元には、それがない。
だから受け手は、不安になる。
私はこの子をちゃんと受け取れているのか。
この解釈は作品から来ているのか。
自分の欲望を貼っているだけではないのか。
この子なら本当にこう言うのか。
この子は本当にそんなふうに動くのか。
この関係性は本当に作品に根があるのか。
これが、誤読の恐怖である。
これは、悪いものではない。
むしろ、本来は作品への謙虚さである。
誤読が怖いから、作品を読み返す。
台詞を確認する。
沈黙を見る。
関係性の積み重ねを見る。
他の場面との整合性を考える。
自分の解釈が作品から離れていないかを疑う。
この恐怖があるから、受け手は作品に戻る。
作品に戻って、もう一度見る。
この子は本当にそういう子なのか。
この沈黙は何だったのか。
この台詞は、何を意味していたのか。
それは、二次元キャラクターを人間として受け取るからこそ生じる緊張である。
どうでもいい記号なら、誤読など怖くない。
好きなように使えばいい。
好きなように読めばいい。
都合よく動かせばいい。
しかし、「この子」として受け取ってしまったなら、そうはいかない。
誤読の恐怖が生まれる。
証明不能性――好きであることは、どこにも確定されない
もうひとつの不安は、証明不能性である。
二次元キャラクターへの愛は、現実で証明されない。
相手から返事はない。
好意は返ってこない。
認知もない。
触れられない。
制度にもならない。
関係性に名前もつかない。
こちらがどれだけ好きでも、その好きは相手によって承認されない。
現実の人間関係なら、何らかの応答がある。
好意が返ってくることもある。
拒絶されることもある。
関係が進むこともある。
壊れることもある。
二次元にはそれがない。
好きである。
しかし、その好きは届かない。
大事である。
しかし、その大事さは相手によって証明されない。
自分にとっては唯一でも、相手からは何も返ってこない。
この証明不能性は、人間にとってかなり不安定である。
だから、人は現実側に痕跡を作りたくなる。
グッズを買う。
感想を書く。
円盤を買う。
アンケートを送る。
イベントへ行く。
祭壇を作る。
同じ作品を好きな人と語る。
SNSに投稿する。
それは自然なことである。
届かない愛を、何らかの形で現実に残したくなる。
問題は、ここからである。
その痕跡は、あくまで痕跡である。
好きそのものではない。
その子そのものでもない。
しかし、人はしばしば、痕跡を本体と取り違える。
私はこれだけ買った。
私はこれだけ通った。
私はこれだけ語った。
私はこれだけ支えた。
私はこのキャラの人である。
こうして、好きの証明不能性を、現実側の活動量で埋めようとする。
この動きは、人間として理解できる。
しかし、同時に危うい。
なぜなら、その瞬間、視線がキャラクターから自分へ移り始めるからである。
不安は、現実側の処理へ向かう
誤読の恐怖。
証明不能性。
届かなさ。
この三つは、二次元への愛に強い圧力をかける。
この子をちゃんと受け取れているのか。
自分の好きはどこにも証明されないのか。
どれだけ好きでも、届かないのか。
この不安に、人間はずっと耐えられるとは限らない。
だから、現実側へ手を伸ばす。
公式資料を読む。
インタビューを読む。
同じ作品を好きな人の感想を見る。
自分でも感想を書く。
二次創作を見る。
グッズを買う。
イベントへ行く。
公式供給を追う。
界隈の中で、自分の好きの位置を確認する。
ここまでは自然である。
人間は、完全な宙吊りには耐えにくい。
好きなら、何か形がほしくなる。
届かないなら、せめて痕跡がほしくなる。
返事がないなら、せめて同じものを好きな人の言葉がほしくなる。
これは弱さである。
だが、人間らしい弱さである。
しかし、この不安を現実側で完全に解消しようとすると、話が変わる。
誤読の恐怖を、共同体の多数派解釈で消そうとする。
証明不能性を、活動量や所有量で埋めようとする。
届かなさを、二次創作や公式供給で補おうとする。
次元差の苦しさを、認知や応答で消そうとする。
このとき、二次元への愛は、現実側の処理へ流れ始める。
本来抱えるべき二律背反を、解消しようとしてしまう。
次元が違う。
しかし、人間として受け取ってしまう。
この矛盾を抱えるのではなく、どちらかへ逃げようとする。
次元差を消す方向へ行けば、二次元は三次元化する。
人間として受け取ることを捨てれば、キャラクターは記号化する。
ここで、畏れが必要になる。
畏れとは、二律背反から逃げずに人間として扱う態度である
畏れとは何か。
ここでいう畏れは、恐怖ではない。
怯えでもない。
禁止でもない。
マナーでもない。
畏れとは、二律背反から逃げずに、その子を人間として扱い続けようとする緊張感である。
具体的には、次元差、誤読の恐怖、証明不能性、届かなさを抱えたまま、それでもキャラクターを人間として扱おうとする態度である。
この子をちゃんと受け取れているのか。
この子を自分の欲望で上書きしていないか。
この子を自分の証明物にしていないか。
この子を現実側の不安解消に使っていないか。
そう問う感覚である。
好きだから近づきたい。
好きだから形にしたい。
好きだから語りたい。
好きだから残したい。
その気持ちは自然である。
しかし、同時に、
この子を使っていないか。
この子を軽く扱っていないか。
この子を人間として受け取ったはずなのに、ただの素材にしていないか。
そう問う。
ここに畏れがある。
愛は、行為を増やすだけではない。
好きだから語る。
好きだから買う。
好きだから飾る。
好きだから応援する。
好きだから感想を書く。
それはある。
だが、好きだからできなくなることもある。
好きだから、雑に扱えない。
好きだから、勝手に動かせない。
好きだから、自分の欲望の素材にしにくい。
好きだから、自分の愛の証明物にしにくい。
好きだから、自分の承認の道具にしにくい。
これは矛盾ではない。
むしろ、愛とは本来そういうものだと思う。
愛は、対象を自分の自由にするための感情ではない。
対象が自分の思い通りにならないことを、なお受け入れる感情でもある。
だから、二次元キャラクターを人間として受け取るなら、そこには畏れが生じる。
それは外から押しつけられる倫理ではない。
対象を人間として受け取った結果として、内側に生じる緊張である。
語ることと、使うことは違う
ここで区別したいのは、語ることと使うことの違いである。
畏れがあるから語れない、という話ではない。
好きなものについて語ることはできる。
大事な人について書くことはできる。
その人がどういう存在だったのか、自分がどう受け取ったのか、どんな記憶が残っているのかを言葉にすることはできる。
たとえば、死んだ祖母について書くことはできる。
祖母はこういう人だった。
こういう言葉をくれた。
こういう癖があった。
こういう料理を作った。
こういうふうに笑った。
私は祖母をこう好きだった。
今でも思い出す。
これは書ける。
むしろ、好きだから書ける。
それは記録である。
証言である。
追悼である。
供養でもある。
もちろん、完全な客観ではない。
記憶は曖昧である。
自分の感情も混ざる。
思い出は美化されることもある。
それでも、書ける。
なぜなら、それは祖母を使っているのではないからである。
こちら側の記憶として語っている。
こちら側の愛として言葉にしている。
自分が受け取ったものを、自分の責任で語っている。
二次元キャラクターについて語ることも、これに近い。
このキャラクターをどう受け取ったか。
どの場面に何を感じたか。
どの台詞に何を見たか。
どの沈黙に何を感じたか。
どの関係性の中で、この子が立ち上がったのか。
自分はこの子をどう大事に思っているのか。
それを書くことはできる。
それは対象を使うことではない。
自分の側の言葉として語ることである。
だから、愛は語ることを禁じない。
しかし、語ることと使うことは違う。
死んだ祖母について語ることはできる。
だが、祖母の顔を並べた痛バッグを作れるだろうか。
たぶん、できない。
祖母を勝手に物語の中で動かし、自分に都合のよい台詞を言わせることができるだろうか。
たぶん、できない。
祖母をゲームのライバル役として登場させ、主人公と競わせ、勝った負けたをさせることができるだろうか。
たぶん、できない。
しかも、好きであればあるほどできない。
ここに大事なものがある。
できない理由は、単に「本人が嫌がるかもしれないから」ではない。
もちろん、それもあるかもしれない。
だが、それだけではない。
もっと手前にある。
大事にしている人間を、自分の愛の証明物にしてよいのか。
自分の欲望の素材にしてよいのか。
勝手に動かしてよいのか。
勝手に台詞を言わせてよいのか。
自分の物語の中に組み込んでよいのか。
そこで、手が止まる。
この手が止まる感覚が、畏れである。
祖母について語ることはできる。
しかし、祖母を使うことには畏れが生じる。
二次元キャラクターでも、本当は同じである。
現実の人間ではない。
しかし、前編で見たように、二次元キャラクターは形而上の人間像として立ち上がる。
受け手はそれを「この子」として、人間として受け取る。
ならば、そのキャラクターを使うときには、畏れが生じるはずである。
この子を、自分の愛の証明物にしてよいのか。
この子を、自分の欲望の素材にしてよいのか。
この子を、勝手に動かしてよいのか。
この子を、別の文脈へ連れ出してよいのか。
この子の顔や名前を、自分の承認の道具にしてよいのか。
ここに畏れが生じないなら、そのキャラクターを人間として扱っていないのではないか。
好きだと言いながら、人間扱いしていないのではないか。
中編の結論――二律背反を抱えたまま、人間として扱う
二次元キャラクターを愛するとは、どういうことか。
それは、次元が違う対象を、それでも人間として受け取ってしまうことから始まる。
二次元キャラクターは三次元の現実にはいない。
触れられない。
返事もない。
同じ世界に住めない。
しかし、受け手はそこに「この子」を見る。
この二律背反を抱えることが、二次元への愛の出発点である。
そして、この二律背反は、解消してはならない。
次元差を消せば、二次元は三次元へ引きずり下ろされる。
人間として受け取ることを捨てれば、キャラクターはただの記号になる。
どちらに逃げても、二次元の価値は保てない。
だから、抱えるしかない。
届かない。
しかし、ただの記号ではない。
現実にはいない。
しかし、人間として受け取ってしまう。
この矛盾を抱えたまま、キャラクターを人間として扱おうとする態度。
それが畏れである。
好きだから語れる。
しかし、好きだから使えないことがある。
好きだから残したい。
しかし、好きだから自分の証明物にはできないことがある。
好きだから近づきたい。
しかし、好きだから軽々しく動かせないことがある。
この畏れは、外から押しつけられる禁止ではない。
対象を人間として受け取った結果として、内側に生じる感覚である。
その畏れがないまま「好き」と言うなら、それは単なる悪意の問題ではない。
二次元への愛が抱える二律背反を、まだ引き受けていないということである。
二次元表現が立ち上げた人間を、人間として扱っていない。
人間として受け取るところまで来ていない。
あるいは、受け取っているはずなのに、その扱いが追いついていない。
つまり、わかっていない。
中編で言いたいことは、ここまでである。
後編では、この二律背反や不安に耐えられなくなった受け手が、どのように現実側の処理へ走るのかを見る。
推し活。
痛バッグ。
二次創作。
コラボ。
市場入力型のキャラクター運用。
VTuber。
なぜ人はそこへ向かうのか。
そして、どこで二次元の価値が棄損されるのか。
そこを見ていく。
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